- 過去ログ倉庫:2002年7〜9月
   ●最近の過去ログ&indexに戻る  


(2003.9.5)高円寺を歩いているとよく、最初に勤めていた会社の社長さんにバッタリ会います。

もう18年近くものお付き合いになる、某ゲームメーカーの社長さんなのですが、ご多分に漏れず最近は、ケータイ関係のコンテンツもちょくちょくやっているみたいです。僕の初婚時の仲人もしてくれたこの社長氏、僕が25歳で独立した直後には、文字通り二つ返事で、会社設立時の50%株主にもなってくれた人ですし、(そのときに創った会社は、現在は僕も離れていますが、今ではコ○ミの関連会社になってるらしい)とにかく、気さくで人なつっこい方なので(年上にこういうのも失礼だけど)何か、お手伝いしたいなぁと思ってるのですが、これがまた全然何もはじまらないんだよね。

会うたびに、「おう、お前ウチで何か(ビジネスを)やれよ」と言われるんですが、正直言ってこういうのが一番困ってしまうんです。「やれよ」と言われれば、「やりますよ」と応えるんですが、僕はすでに個人事業者であって法人でもないし、別にプログラマやデザイナーのような、明快に「一山いくら」みたいな仕事をしてるわけでもないので、「じゃ、どういう条件で」という風に、オファーをしてくれないと「やりますやります」と掛け声ばかりで何もはじまらない。
そんなこんなで、この社長氏の会社とは、かれこれ2年以上も、時々バッタリ会っては「おう、なんかやれよ」「やりますやります」のまま、話が進展しないでいるんですよね。

しっかし、これだけ長い付き合いだというのに、何にもないところから、「何かやれよ」ってな話以上に、話を広げることができないのは我ながら情けない。僕の仕事、スタンスというのは、本当に金銭に換算してバリューを主張することが難しい仕事です。18年も付き合いがあり、かつては合計で軽く4000万以上の取引歴があった相手だというのに、あいかわらず今日も「何かやれよ」「やりますやります」のままだなんてなぁ。

なんだか、僕の立場って、相手にとってはつくづく難しいらしい。ビジネスモデルが確立してさえいれば、経済規模はおのずと見えるから、「これこれこういう条件でいくらで」なんて話にすぐなるはずなんだけど、どうせ「何かやれ」って言葉のベースにあるのものは、「何かビジネスを作ってみろ」だから、その期待値を、数字で明快に推し量ることは難しいってことなんだろう。

お金なんて、そんなに必要じゃない。要はやる気、そして、どの程度オレに任せてもらえるか、そして個人事業者たるオレの「事情」をどの程度わかってくれるか、(平たく言えば、ある程度のカネを出してくれるか)って決断だけなんだが。そこを上手くアピールできない(アピールしようとしないという話もあるんだけど)僕は、ビジネスマン失格やね。つくづく。

ってなわけで僕の周囲には、こんな「何かやれよ」「うん、やるやる」な関係な人が、少なくとも1ダースぐらいは居ます。(笑)
ホント、いい加減何かはじめようよ。とてつもなく面白いことを、とてつもなくビンボー臭く、ゲリラっぽくさぁ。(笑)

(2003.9.5)「ナニワ金融道」で人気、元漫画家の青木雄二さん死去。

わお、びつくりした。僕の中では芥川賞作家の花村萬月と並び、「遅咲きの鬼才」の双璧の一人であった青木雄二が、たった58歳で死んでしまうなんて。
今どき珍しいほどハッキリと自らを、「共産主義者」であると標榜し、一方で、「カネはイヤになるほど溜まった。あとは、マンション経営で左うちわの人生や」などと豪語していたこのヘンテコなマルクス−レーニン主義者は、結局「ナニワ金融道」の連載を終了してより、たった6年足らずで肺がんで死んでしまった。恐らく、氏の晩年はとても幸せだっただろうけど、不遇と貧乏、そしてマンガが大ヒットした後も、恐らくは連載〆切で地獄の苦しみであっただろうと考えると、本当に幸せな時期はとても短かったのじゃないかと憶測され、つくづく人生の無常なんてものを感じてしまうのでした。合掌。

青木雄二、そして僕が近年もっとも好きな作家である花村萬月のエッセイは、ともに何度も読み返しましたが、学歴もない、教養もない、コネもなければカネもない、という状況から、壮年になって成功を勝ち得たこの2人の人生観を見ていると、「早熟の天才」ならぬ「大器晩成型」の人には、ある種の共通する資質があるなと感じられたものです。
それはつまり、「明快な目標の設定」と、「経験に基づく高い学習能力」ってあたりでしょうか。

青木雄二は、ナニワ金融道のエッセンスは、マルクスの「資本論」に、ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」という、ただ2冊の著作「のみ」から得たと語っています。この2冊さえあれば他の本を読む必要などはなく、資本論では世の中の摂理を、カラマーゾフの兄弟からは人間の業を知ることができるというのが同氏の持論だったようです。
どちらも大変な大部の書物であって、この2冊をちゃんと「味読」できるには、それなりの高い知的水準が要求されるだろうとは思います。(僕自身は、資本論は3巻目で挫折、ドフトエフスキーは恥ずかしながら未読です)青木雄二は、年を経るに連れて、この2冊に書かれたことこそが、世の中の「真相」であるということを経験的に悟っていったのでしょう。こうした優れた古典を触媒とすることで、自らが人生で得た経験値を、一つの「仮説」から「法則」にまで消化していく。青木雄二はこんな風に、自らの経験と頭で、自分なりの方法論・法則を創ってきた人間のように見えます。
我ながらクサいセリフで恐縮ですが、それは「人生」という学校で、何度も挫折を経験しながら身に付けた、本当の「知恵」だったのではないか。テレビや週刊誌で聞きかじった程度の情報で、したり顔で「人生」とやらを説く、そのへんのダメオヤジとは一味もふた味も違う。そんな気がします。

一方、花村萬月は、30過ぎまで暴力犯罪から麻薬中毒までボロボロの人生を歩んだあと、突如として「1年以内に小説を書いてデビューする」という目標を立てて、見事にそれを実現させてしまった人です。
我がビジネス上の師匠である板倉雄一郎氏がいつも言う言葉、「事業は、成否を決める引数が少ないものほど成功に近い」というのがもし真実ならば、『小説を書いて賞を取ってデビューする』という目標設定は、実はとても引数の少ない『事業』であるとも言えます。そこに必要なのは「個人の資質と意思」ただそれだけなのだし、小説を書くには、特別な初期投資だって何も必要ないわけですし。
花村氏のエッセイを読んでいてつくづく感じるのは、作家(書き手)としての顔だけでなく、自らが書く小説に対して、一歩引いて「プランニング」や「マーケティング」という言葉ですら表現できそうなスタンスを同時に持っていることです。いわば、この2人は自分の人生を生きることで、人に教えられることなく、こうした自分なりの成功法則を学んできた人です。そういう事実に、当年40歳を迎える僕は感動してしまうんです。

僕自身は、作家になりたいなどという志向は微塵も持っていない人間ですが、あくまで「ビジネス(事業)」として設定したその成功目標や、それに近づくための行動を本などで読むと、この2人は、『感性』や『才能』などというあやふやな言葉を信じず(あるいは、そうした言葉ときっぱり決別し)、明快に「事業」として作家になることを志し、それを当然のように実現させた人物だということがよくわかります。
本当に力のある人、知恵のある人というのは、こういう人たちのことを言うのだなとつくづく思います。

マンガや小説というのは、今風の言葉で言えばいわゆる「コンテンツ」です。コンテンツというものは所詮は「水もの」であり、ビジネス面から見た場合、常に「それを絶対的に必要としている人の数」という数字に還元され、失礼にも、あれこれと天秤にかけられる存在なわけです。僕自身は、いわゆる「コンテンツ制作者(ゲーム制作者)」という立場から、現在の仕事に変わった人間ですが、コンテンツ制作どっぷりだった20代の頃に、彼ら2人の鬼才のような視点を、もし持つことができていたらどんなに良かっただろうかと思います。

僕は、あれこれとエラそうに人に講釈することは決して好まない人間ですが、(エ?意外だって?)もし、「コンテンツ」というものに関わっておられる方がいるならば、ぜひこの2人が残したエッセイなどを読んでみてほしい。『モノを創る』というのが一体どういうことか、そして、コンテンツを創る側の人間は、一体どのようなスタンスでそれと付き合っていくべきか、色々と啓発される部分もあるのじゃないかと思います。

(2003.9.1)ケータイビジネスの話なんてつまんねーから、自動車の話でもしよう。(笑)

最近の僕しかご存じでない方は意外に思われるかもしれませんが、以前の僕は、実は結構なクルマ好きでした。
とは言っても、「スポーツカーが好き」とか「四駆が好き」とかそういうのではありません。以前の僕は、国内で市販されている、ほぼすべての乗用車のディメンジョン(幅長さ高さ)をまるごと暗唱していましたし、どの車種とどの車種がシャーシ流用によって設計されているか、搭載エンジンのバリエーションや設計年度なんてことをすべて知っていました。言ってみれば、自動車オタクといより、「自動車産業オタク」というべきなのかもしれない。
たとえば、「三菱のクルマは、かつてはランサー、ギャランにディアマンテ、GTOに最高級車のデボネアまでが、すべて共通の車台ベースで設計されてる。こういうメーカーはいずれダメになるだろう」とか、「スバルのインプレッサは、実は上級車種レガシーのフレームをサイズダウンして作られているので、クルマの成り立ち自体がややオーバースペックで、ファミリーカーとしては贅沢なクルマである」とか、まぁそういう類のウンチクです。

ちなみに僕自身の自動車歴は別に大したものじゃあなくて、大学時代に10万で買ったボロボロの初代HONDAアコードをはじめに、ISUZUピアッツァ、OPELの3Lスポーツセダンのオメガ(まだ、ヤナセがオペルを扱う以前に輸入されていた車種です)そして、BMWの320iセダンです。
現在は車は所有していません。

かの徳大寺有恒先生のベストセラーシリーズ、「間違いだらけのクルマ選び」は今でも毎年買っています。(最近はついに年2回刊行になっていますが)日本を代表する自動車評論家の徳大寺先生ですが、10年ほど前までは、それはそれはそれはひどい悪文で、読んでいて「なんじゃこのヘンテコな日本語は〜!」と驚かされることも多かったのですが、それも近年はだいぶまともになってきました。余談ですが徳大寺先生の素晴らしさっていうのは、ひどい悪文、時には主語述語のつながりすら間違っているというひどさなのになお、その内容がバツグンに面白いというところなんですよね。やっぱり文筆家というのは、どんな悪文であっても「○○節」と言わせしめてしまうだけの個性とパワーこそが大切なのでしょう。

さて、10年ぐらい続けて、ずっと「間違いだらけ‥」を読み続けてくると、つくづく面白いなぁと思います。
自動車という、高価な耐久消費財の販売動向を通して、日本の消費者の嗜好の変遷が見えてくるんです。そのクルマ選びと売れ筋の変遷を見る限り、一定数の賢い消費者が存在する一方で、正直なところ、あまり賢くない消費者も必ず一定数だけは存在しているとことがわかるところが面白いんですね。

高度成長期のスペシャルティーカー(スポーツカーではない)ブーム。バブル期のハードトップ〜「車高が低いクルマほどカッコいい」信仰の時代を経て、バブル崩壊後の四駆人気、そして現在のミニヴァンブーム(そろそろこのブームも終わりらしいですが)という時代を通じて、一貫して見えてくる日本の「ダメ消費者層」の購買行動を一言で表現すると、『本当の豊かさとは何かを実はぜんぜんわからない』ということのような気がします。
スペシャルティーカーのシャーシーは所詮はファミリーセダンベースで本物のスポーツカーではない。車高を下げたら居住性は極度に悪化するのですが、1980年代から90年代前半の日本の自動車は、車高を下げないと5ナンバー枠(幅が1700mm未満)でカッコよく見せることができなかったから、ホンダあたりが中心にひたすら背の低いクルマが増えた。そして、ナンバー1トヨタが臆面もなくそれをパクってマーケットを支配する。
四駆全盛の時代、多くの四駆は乗用車ベースなので、本当の不整地走破なんかできなかったけど、とにかく時代は四駆だった。背が高いから都心の立体駐車場には入れられないし、車体が不必要に重いので燃費も最悪、さらにはディーゼルはノイズもひどくて環境にも悪い。取りまわしも悪いので、ブームの頃に四駆を買ったユーザーは、次の買い替え時にはほとんど四駆を選ばなかったと言われています。
そして現在、ファミリー層のクルマ選びの実権は一家の奥方様に移って、「たくさん乗れて中でのんびりできて、オムツを替えたりできるクルマがほしいわ」と、ミニヴァンの一大ブームがあった。しかし、ミニヴァンの多くは重量が重いため、燃費は極めて悪い場合が多く不経済。また、限られたサイズに7人も8人も定員を取ろうとするから、普通のセダンよりも一人当たりの居住性はずっと悪くてシートも薄っぺら。(多分こうした消費者の多くが、本当の「良い椅子」というものを知らないと思われる)
それでも今、休日にレジャー地に出かければ、まるでハンで押したようにファミリー層はミニヴァンばかり。もちろん、7人も乗っている確率は相当に低いわけで、そもそも都内を走る自動車の平均乗車人数は、平均すると1.5人未満しかいないというのに、どうして「いざというときには8人乗れるから‥」という少ない可能性のために、5人乗りセダンと同じ上方投影面積に、乗車定員を無理矢理8人とした、どの座席に座っても居心地の悪いいクルマを買わねばならないのか。ほとんどの核家族にとって、ミニヴァンとはほとんど無意味なチョイスなんですね。

世の中は、賢いチョイスができる人と、愚かなチョイスしかできない人間のミクスチュアによって成り立っている。その成り立ちは一見したのではわからない。だからこの世の中においてモノやサービスがヒットする基準とは、「モノのよさ」だけでは語ることはできないんだよね。
むしろ、「こういう人にとっての良いモノとは何だろう」と、想像をたくましくすることが大切なんじゃないかと思う。できれば想像するだけじゃなくて、自分もその「ダメな消費者」になってみることも大切なような気がする。人間って、どうしても自分を基準にモノを考えてしまう。そういう意味では、まず「自分とは何か?」という問いかけを常にしていることが、「正しいモノ作り」の第一歩なんじゃないかと思うんだな。

(2003.8.13)そういえば、こんな仕事しました。

紹介者のTさんは「ダメ本」っていうけど、オレはなかなか悪くないと思うけどな。(笑)
いや、自分のところじゃなくて、他の方が執筆した部分を見てそう感じたんだけどね、ホント。

(2003.8.13)今手伝ってるオレ企画ビジネスが上手くいかなかった場合、オレは「プランナー」という看板は降ろさないといかんそうです。
今付き合ってる会社のブチョ〜氏に、こんなことを言われました。

かーなり失礼なこのセリフ。言ってる当人たちはどうも、失礼だという認識がないみたいなんですね。
いや、多分言ってることは多分真実だろう。利益につながらない「プラン」など、何の意味もないから、こっちだってそれなりの覚悟があって「プランナー」名乗ってる。そのへんオレの中では、プランナー=クリエイティブ職などという無邪気な誤解はないさ。でも、これって自分の心の中で静かに決意するもので、人にあれこれお節介されることじゃねーよなハゲ。
もし逆に、「今まで赤字続きだったくせにブチョー名乗ってる資格あるの?」と訊かれたら、たとい事実だったとしてもどれほど失礼か、想像してもらえば、両者の関係などハナっから対等でもなんでもないことは明白なんだよね。

我が友の名セリフをつくづく思い出すよ。「会社にとって外部の人間は、“センセイ”か“業者の人”のどちらかでしかない」ってね。
「センセイ」にそんな失礼なこと言うわけないから、多分オレは「業者の人」側に登録されてるんだろう。オレはどっちに区分けされるのもまったくゴメンなんだけど、こういう集団主義の遺伝子が絶滅する時代なんてほんとに来るのかな。多分こないんだろうな。そういうしょーむない摂理みたいなモンを、いまだに受け入れることができないまま、気が付いてみればもうすぐ40歳だよ。やれやれ。

会社っていうのは基本的に利益追求集団であって、それ以上でも以下でもない。ましてや仲良しクラブや趣味のサークルじゃない。利益が出てない会社や事業が、何らかの事情で存続させてもらっちゃってると、必ずやモラルハザードが蔓延して、業務分掌も指揮系統も滅茶苦茶。やる気・能力のある人間から順番に抜けていく。

だからさ、だからこそ、オレはそういうとこを手伝いたいのよ。
すでに利益構造の出来上がったところで、ちょっと儲けの上乗せを手伝いましたぐらいじゃ、『個人事業者』三田隆治の正味バリューはアップしないもんね。赤字垂れ流し上等じゃねーか。これがオレ流プラス志向ってやつなんだけどね。
単なる「コンサル」やら「アドバイザー」みたいな立場はやっぱりいやだね。やる以上は、やっぱり自らもリスクを取らないと面白くないよ。

(2003.8.9)あ〜、随分告知が遅くなりましたが、先月末に新創刊した雑誌で連載やってます。

ちなみに、実際に編集しているのは朝日新聞社ではなく、外部の編集プロダクション。僕は、週刊朝日さんなどで、「Skew!トータルアドバイザー」などという、なにやらいかめしい肩書きで取材受けちゃったりしていますが、別に私が、あの雑誌の特集やコンセプトを定めているわけではありませんので、どうか誤解なさらないでください。(笑) テーマは先に決まっていて、「これでお願いします」って感じなんです。

というわけで、あまりここでは話題にしないつもりですが、一応これも何かの縁なんで、とりあえずよろしくお願いします。m(_ _)m
っていうか、ほんと 申し訳ない。>もし買った方がいらしゃったら

(2003.7.25)日経パソコンの取材で来週の29日、富士通に行きます。

「PDA化する携帯電話」という、(僕的には)いたってフツーな題材で取材させていただく予定です。
もともと、今年になってから出たFOMAは、すべてPCとのデータリンクソフトのCD−ROMが標準で付属してくるんですが、(これが意外に知られてないんだよねぇ。もっとアピールした方がいいのに)新しい富士通のFOMA「F2102V」は、充電器がそのままUSBクレードルとしても利用できて、Microsoft Outlookとの「ホットシンク」が可能になるんですね。
前から言ってるけど、こうなってくるともうホントにPDA要らないやね。特に僕個人は予定表をOutlookでやってるんで、ケータイとスケジュールが連動できるととってもうれしい。
って、ナンダ?このフツーのTIPSは(笑)。

(2003.7.2)ロッテの「コアラのマーチ」には、オ○ニーしてるコアラがいる?

ひさびさに例のギャル向け雑誌「egg」を見てみたら、こんな記事が出ていたのでびっくりしてコアラのマーチを買っちゃいましたよ。
なんでも、10数箱に一個ぐらいの超レアモノらしいので、彼女にも手伝ってもらって何個か買っているうちに、ついに見つけました。コレです。

うーん微妙。確かに、そのモノズバリに見えないこともない。でも、「いや、これは違うんですよ」とメーカーが否定できる余地も大いにありでしょう。
ただ、ベルト部の2つの「○」は、確かにどう見ても不自然だ。これ、やっぱり狙ってやってないか?
ちなみに「egg」では、もう絶対「オ○ニー」であると、完全に決め付けてました。(笑)

コンビニで売ってるiモード雑誌なんかもそうなんだけど、こういう雑誌って、基本的にちょっと電波入ってるんだよね。読者からの投稿とかで、こういう黒とも白とも書けるような微妙な話題とかが、「これは黒!」と断言されてたり、さらには根も葉もない都市伝説が平然と載ってたりする。
たとえば、「ケータイで特定の番号をダイアルすると、幽霊の声が聴こえてきます」だなんて断言してたりするんで一瞬驚いちゃう。かといって、そのページが、最初からネタ中心だと断り書きされてるわけでもない。れっきとした「事実「と、単なる「都市伝説」が、明快なボーダーも敷かれずに同じページに共存してたりするんだよな。

僕が普段書かせてもらってるような雑誌では、大抵はファクト主義が大原則で、「間違いは書いてはならない」ということはとても気を使うんだけど、そういう目から見るとある意味驚かされます。でも考えてみれば、報道的色彩がない媒体であれば、正しいか間違いかなんてことより、面白いかつまんないかが大事なんだろうからそれでいいんだよね。でも、おかげでケータイユーザー(tipicalな意味でのケータイユーザーね)の中には、「ファクト」と「虚構」が、完全にゴッチャになってる人って結構いるのね。

でも、ここまで話すと結局は不可知論や認識論の領域になっちゃうか。僕自身だって、神様じゃない以上、100%のファクトに基づいて記事を書くのは実は不可能であって、他の誰かから見ればやっぱり電波だと思われる可能性は大いにある。一個下↓のTIPSなんか、かなり微妙じゃない?そのへん。

しかし、それでも「egg」って色んな意味で笑える雑誌ですね。もし、難しい雑誌ばかり見てる方がいたら、是非手にとって見てほしい。
僕が見た号では、ギャルたちのトークというか、読者モデルとの対談みたいなのが載っていたけど、「社会人といっても、会社員とフリーランスの二種類があるんだよ」「え、そうなの?そのフリーランスってなに?」と話が続く。
正直、子供雑誌でもないのに「フリーランス」という言葉の意味を解説しなければならない雑誌があるというのは、ある意味衝撃的ではある。

でも、こういう雑誌って結構嫌いじゃないんだよね。昔、「ティーンズロード」の文通コーナーをはじめてみたとき、一瞬真剣に「オレもヤンキーになろうかな」と思ってしまったことがありましたが、もうこれは異文化であって、ちょっとだけ海外旅行に出かけたようなエキゾチックな気分とでも言おうか、いやはや。


(2003.7.2)ロッテの「コアラのマーチ」には、オ○ニーしてるコアラがいる?

ひさびさに例のギャル向け雑誌「egg」を見てみたら、こんな記事が出ていたのでびっくりしてコアラのマーチを買っちゃいましたよ。
なんでも、10数箱に一個ぐらいの超レアモノらしいので、彼女にも手伝ってもらって何個か買っているうちに、ついに見つけました。コレです。

うーん微妙。確かに、そのモノズバリに見えないこともない。でも、「いや、これは違うんですよ」とメーカーが否定できる余地も大いにありでしょう。
ただ、ベルト部の2つの「○」は、確かにどう見ても不自然だ。これ、やっぱり狙ってやってないか?
ちなみに「egg」では、もう絶対「オ○ニー」であると、完全に決め付けてました。(笑)

コンビニで売ってるiモード雑誌なんかもそうなんだけど、こういう雑誌って、基本的にちょっと電波入ってるんだよね。読者からの投稿とかで、こういう黒とも白とも書けるような微妙な話題とかが、「これは黒!」と断言されてたり、さらには根も葉もない都市伝説が平然と載ってたりする。
たとえば、「ケータイで特定の番号をダイアルすると、幽霊の声が聴こえてきます」だなんて断言してたりするんで一瞬驚いちゃう。かといって、そのページが、最初からネタ中心だと断り書きされてるわけでもない。れっきとした「事実「と、単なる「都市伝説」が、明快なボーダーも敷かれずに同じページに共存してたりするんだよな。

僕が普段書かせてもらってるような雑誌では、大抵はファクト主義が大原則で、「間違いは書いてはならない」ということはとても気を使うんだけど、そういう目から見るとある意味驚かされます。でも考えてみれば、報道的色彩がない媒体であれば、正しいか間違いかなんてことより、面白いかつまんないかが大事なんだろうからそれでいいんだよね。でも、おかげでケータイユーザー(tipicalな意味でのケータイユーザーね)の中には、「ファクト」と「虚構」が、完全にゴッチャになってる人って結構いるのね。

でも、ここまで話すと結局は不可知論や認識論の領域になっちゃうか。僕自身だって、神様じゃない以上、100%のファクトに基づいて記事を書くのは実は不可能であって、他の誰かから見ればやっぱり電波だと思われる可能性は大いにある。一個下↓のTIPSなんか、かなり微妙じゃない?そのへん。

しかし、それでも「egg」って色んな意味で笑える雑誌ですね。もし、難しい雑誌ばかり見てる方がいたら、是非手にとって見てほしい。
僕が見た号では、ギャルたちのトークというか、読者モデルとの対談みたいなのが載っていたけど、「社会人といっても、会社員とフリーランスの二種類があるんだよ」「え、そうなの?そのフリーランスってなに?」と話が続く。
正直、子供雑誌でもないのに「フリーランス」という言葉の意味を解説しなければならない雑誌があるというのは、ある意味衝撃的ではある。

でも、こういう雑誌って結構嫌いじゃないんだよね。昔、「ティーンズロード」の文通コーナーをはじめてみたとき、一瞬真剣に「オレもヤンキーになろうかな」と思ってしまったことがありましたが、もうこれは異文化であって、ちょっとだけ海外旅行に出かけたようなエキゾチックな気分とでも言おうか、いやはや。


(2003.7.1)あなたご存知でしたか?テレビ視聴者の平均年齢が「50歳」だということを。

ちなみに現在、日本国民全員の平均年齢は41歳です。バティカン市国やモナコ公国などの特殊な国家を除けば、すでに世界でも最高齢、その平均値よりもさらに9歳も高齢。これが日本テレビ視聴者の現実です。
ちなみに、こちらは誰でも知っていることですが、テレビ視聴者でもっとも多数を占める職業は「主婦」です。

すでに昨年あたりより、テレビ番組、特にドラマなどでは保守化傾向もかなり顕著になってきました。中には、ゴールデンタイムに、鳴り物入りではじまった話題作(と、テレビ局が位置づけたがっていたモノ)が、夕方にやってる金八先生の再放送に視聴率で負けるなどという逆転現象まで起こっている。
実のところ、すでにテレビに新しいモノを期待している人などいないのではないか。

ここから先は僕の憶測でしかないけど、キムタク主演、北川悦吏子脚本という意欲作、「空から振る一億の星」が予想外の大ゴケをしたあたりより、さすがにテレビマンも、何かが違ってきてることに気が付いたんじゃないか。実際、20年前ですらすでに古臭かった大映のドラマ「スチュワーデス物語」そこのけに古臭〜い「グッドラック」の予想外な高視聴率、しかも、ドラマの影響で航空会社への就職希望が殺到したというおまけまで付く。
勿論、アメリカなどでは航空産業の自由化で、最大手の会社ですらあっさり倒産しているなどという事実など、そうした視聴者はまったく知らないか、さもなくば、自分の問題として想像することもできなくなっているのではないか。
テレビ視聴者のIQって、なんて低いんだろう。

マスメディアの代表格と見られてきたテレビですが、多分、もはやテレビは時代の何ものも代表していない。以前からずっとこのTIPSで、「嗜好の多様化・個性化が進んだ時代になると、最大公約数に受け入れられるもの、イコールもっともくだらないモノになるしかなくなる」と書いてきました。
これからは「マス」と名の付くすべてのメディアが、こうした知的退化現象を起こすことは避けられないだろうと思う。

 
本ページ内容の無断転載を禁じます
リンクはご自由にどうぞ。
Windows IE.6.0で動作確認しています。
『化学的洗浄』 (C) 2001,2002 Takaharu Mita All Rights Reserved