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11月17日
世代論的に考察する、『あいのり』
 TV番組『あいのり(フジTV系列)が大人気らしい。
 特に20代OLに限定すれば、視聴率は50%に達するのではないかというほどの勢いらしく、単行本もまた良く売れているという。
 内容はというと、まあ特に言及するほどのものではない。いかにも将来性のなさそうな若い男女数名が、狭いワゴンに寿司詰めになって、海外の辺鄙なところをわざわざ選んで旅をする。時間・空間ともに、普段より濃密な状況を作っておくことで当然のように彼らは恋に落ち(もしくはそのように演技し)、我ら視聴者は、その他愛もない彼ら彼女らのクヨクヨイジイジしたさまをモニター越しに眺めて楽しむのである。そういう意味で、「恋愛観察バラエティ」という番組サブタイトルは、実に的確に番組の内容を説明していると思う。
 しかし、上記であえて「将来性のなさそうな」という表現を用いたが、書いてみて改めて、この表現自体がすでに死語に近いニュアンスを持っていることに気がついた。間違いなく、もう右肩上がりの時代は終わったのだなぁ。「上昇志向」そのものが、「そこまでやってどうすんの?」というクエスチョンマーク付きのニュアンスで語られる時代だし、同時に、これだけ激しく動く世の中だと、「キャリアを積む」という概念自体も、多くの分野でかなり曖昧になってきてしまっている。

 比較の対象として、過去にヒットした恋愛バラエティ番組についても調べてみた。
 まず、「ひと目合ったその日から、恋のはじまることもある」の前口上で大人気になった(当時、関西系のTV局は、多くがこうした決まり文句を好んで使っていた)パンチDEデート(関西TV/フジTV系列)が、73年から85年の放映。そのパンチDEデートの競争相手だった『プロポーズ大作戦(朝日放送/テレビ朝日系列)も、全く同じで73年から85年。この頃はまだ、こうした長寿番組が多数あった時代だった。
 この、73年から85年という放映年代は実に象徴的である。73年という年は、70年安保闘争闘争後、72年の浅間山荘事件による学生運動の挫折を経て、「シラケ世代」という言葉が流行語となった翌年ごろ。そして85年はプラザ合意のあった年である。つまり、これらの番組は、「軟派であること」(カタカナの「ナンパ」とはニュアンスが異なる)が市民権を得た頃に始まり、バブル前夜まで続いたことになる。

 そして、まだ比較的記憶に新しい『ねるとん紅鯨団(フジTV系列)が、87年から94年である。この放映年代は、バブルの勃興期より、バブル崩壊後の、ジュリアナブーム終焉あたりとほぼ年代が重なる。つまり、時代のキーワードが「イケイケ」だったころである。
 過去の2番組と比較した場合、「ねるとん」は、内容的により「フリースタイル」になったことが特徴だろう。今考えてみると、プロポーズ大作戦は、おのおののチームの成り立ちが、まるでRPGにおける「パーティ」だった。正統的2枚目の「戦士」がいる一方で、知的な「魔術師」、癒しキャラの「僧侶」、そして一人でボケを担当する「道化師」と、大体のところパーティ内での役割が明確に決まっていた。それに比べると、「ねるとん」はもっと個人主義的になり、各人のキャラの出し方も多様化してきた。

 過去にヒットしたこれらの番組は、大まかに言って19歳から24歳ぐらいが出演者のコアとなる年齢層だった。実際の視聴者層は、「俺も大学に合格したら絶対プロポーズ大作戦に出てやる」と考えていた高校生や、(全国的に見ればなんら際立った特徴のない京都産業大学を一躍有名にしたのもこの番組であった)、「もう2,3歳若かったら私も応募するのに」と考えていたOLなど、もう少し縦方向に拡がりがあるはずだろうが。が、とりあえずここでは、19〜24歳をコア層と考えてみる。

 これらの番組放映当時、上記の年齢に該当する若者が、現在何歳になっているかを計算してみた。そして同時に、現在「あいのり」の主要視聴者層(データがないので僕個人の憶測になるが)と、出演できる年齢層を想定すると、結果は下記の通りのセグメント構造となる。
 下記のセグメントに異論がある方は是非メールで教えて欲しい。なにせ僕もそんなに自信満々で書いているわけではないのだ。

セグメント
流行した恋愛バラエティ番組
番組の傾向
(三田による仮説)
現在の年齢層
aセグメント
パンチDEデート・プロポーズ大作戦
集団指向・フォーマット志向
35歳〜51歳
bセグメント
ねるとん紅鯨団
フリースタイル・自己表現
26歳〜38歳
cセグメント
あいのり
非集団指向・モノローグ的
15歳〜25歳


 かなり大雑把な考察ではあるが、僕にはなんとなく、この結果には納得できるものを感じる。
 僕はもうすぐ38歳になるが、上記のセグメントでいうと、aとbの層がちょうどクロスした世代にあたる。実際僕が大学2年のとき、僕の住んでいたアパートの隣の部屋の男は「プロポーズ大作戦」に出演したし、社会人になって間もないころ、1年後輩の社会人は「ねるとん」に出演した。

 「あいのり」を見ていてつくづく思うのは、やはりこれは、ポスト「エヴァンゲリオン」世代を象徴しているなぁという感慨である。
 「あいのり」は間違いなく、自分が嫌いな人のための番組である。もし、この番組が1980年頃に放映されたら、「暗い!」「ダサい青春ドラマ!」と笑い飛ばされたのではないかとすら思う。「あいのり」の出演者は、前記で挙げたような過去の恋愛バラエティと比べ、自己表現や自己アピールの欲求をあまり持っていない。むしろベクトルとしては内省的であり、ところどころ、内省的すぎると思われるときもある。これは、「プロポーズ大作戦」を今見ると、出演者が皆何も考えてないアホに見えるのと同じで、ある種、世代的な特徴(というよりも時代的な特徴か)がデフォルメされた形で出た結果なのかもしれない。

 と、ここまで極力冷静に語ってきたが、最後に一つだけ、オヤジの愚痴を噴出させてもらってもいいっすか。(笑)
 「あいのり」を見ていると、ほとんどの出演者が自分が小さい存在であることや、弱い存在であることをクヨクヨと悩んでいる。悩むのは結構なのだが、番組でよく登場するセリフだが、「この旅をすることで強くなれる」とか、「キミに告白することで自分は変われる」などと言われると、「そりゃねーだろ」と、思わず画面にツッコミを入れたくなってしまうのだ。
 もし、「プロポーズ大作戦」で、これと同じ発言を出演者がしたらどうだろう。多分、満場爆笑で終わりなのではないか。そう考えると時代はやはり変わったのだなぁと改めて思う次第だ。

 元来、プロポーズ大作戦の頃から、こうした恋愛バラエティ番組というのは、視聴者の半数が、目をうるうるさせながら本気で憧れて観ている奴が半分で、残りの半数は「なんてアホなんだ」とツッコミながら思わず観てしまう層によって構成されているわけで、そういう意味では、なんのかんの言いながら「あいのり」を観てしまう僕も、結局は術中にはまっているのだろうなぁ。


11月29日
雇う側の苦悩
●独立した経営者からの電話
 以前、僕が経営していたゲーム開発会社で、長いこと開発部長として活躍してくれた男から、久しぶりに電話があった。
 彼はデザイナーとしても優秀で統率力もあり、創業期から最盛期にかけて、僕の会社の屋台骨を支えてくれた男でもある。現在彼は独立し、社員20名弱の開発会社を経営している。ゲーム開発会社というのは、基本的にはヒット作を出さない限り本当の意味での成長はあり得ないのだが、そこの経営状態がかなり苦しいらしい。

●出世した後輩や部下だった人びと
 少し脱線するが、今まで僕が仕事の中で接してきた人物で、のちに傑出した存在になった者には、みな共通した特徴がある。大体、どんな仕事でも半年あればほぼ一人前になってしまうほど学習能力が高いのだ。僕が20代中盤に勤めていたゲームメーカーで、未経験で採用したゲームプランナーがいた。僕が独立した後、誰でも知っている某大手メーカーに破格の待遇で引き抜かれた彼は、今やその会社でもっとも大切な、ミリオン級のゲーム開発ラインを統率しており、現在200名程度の部下が居る。しかし、彼が最初に僕に提出した企画書は、もちろんヒドいものだった。しかし、2度目3度目と書き直しをするたびに、同じ間違いを決して繰り返さない、その学習能力の高さに僕は内心舌を巻いていた。最初に話した、その独立した経営者氏も、多分彼と同じぐらいの潜在力を持っていたと思う。
 その彼が、現在、資金繰りの苦しい状況で大変なのだという。

●不況下の増員は
 彼は、1年弱前に、さるアニメ制作会社がゲーム不況のあおりでゲーム制作部門を廃止したとき、そこから放逐された開発者(プログラマやデザイナーや企画者)を自分の会社で引き受け、それまで10名以下の体制だった会社を一気に倍増した。実はそのときも僕は、「(増員は)やめたほうがいい」と反対したのだ。人員を増やすのは、好景気・または成長局面にある業種だけに許される行為だ。不景気・または淘汰の段階に入った業種において、たまたま仕事があるという理由で人員を増やすのは、会社にとっては興奮剤の注射にも等しい。そうして結果的に潰れた会社を僕はいくつも知っている。

●量的拡大と質的拡大
 一体、経営には量的拡大と質的拡大の2つがある。ソフトウェアのような業界では、理屈の上では量的拡大はほとんど意味をなさないはずだ。ところが一時期のゲーム業界は、CD-ROMメディアの普及などで、量的な拡大をせねば一社で1タイトルのソフトウェアを作れないようになってしまった。このことによって自らのコンピタンスが曖昧になり、結果的に潰れた会社は多い。逆に、最近のプレステ2のように開発規模があまりにも巨大化してしまうと、全てを一社でまかなえるのは大手メーカーだけで、小規模な開発会社は積極的なアウトソーシングによって、自社のコア・コンピタンスを維持する必要がある。これは理屈としては誰でもわかることだろうが、量的拡大をせず、質的な拡大のみを目指すというのは、経営者にとって本当に難しい行為である。何故ならば、テクニカルに難しいというだけでなく、量的拡大には大きな誘惑があるからだ。
 簡単なたとえ話をする。毎月1000万の売上の会社があるとして、経費を1%節約すると10万円が浮く。ところが、毎月100万円の売上の会社では、1%節約しても1万円にしかならない。10万円あれば、新しいCGソフトウェアを導入して、新しい技法を試すことができるかもしれないが、1万円では不可能だ。つまり、これがいわゆる「スケールメリット」である。こう書くといかにも量的に大きな方が有利に思えるが、決してそうではない。何故ならば1000万円の会社は、それなりに大きな再投資を行わなければスケールを維持できないからだ。そして、これほど早く物事や価値観が変わる時代には、経営予想というものはとかく外れる。昔から「大きな船はゆっくり沈む」という。それは確かに一面の真理かもしれないが、今の時代はむしろ、『小さな船はひっくり帰ってもすぐ元に戻る』ということのほうに僕は魅力を感じるのだが。

●オーナー社長の誘惑
 しかし、オーナー社長にとって、「浮いた金」というのは、すなわちそのまま「心の安定」を意味する。そこで多くのオーナー社長は(かつての僕自身を含めて)、1万円より10万円の方が良いことだと感じてしまうのだ。本当の意味での経営評価は、売上額よりも純利益で判断しなければならないものなのだが、戦術的にはシェア拡大(つまり売上増大)のために、あえて利益を犠牲にする場合もあるだろう。(平日半額セールを行って、売上増・減益となったマクドナルドなどは、その好例だろう) ところが往々にしてプライベートな企業の場合、経営者はお金というものを整然と分けて考えることができない。つまり、「会社の金」と「自分の金」のスケール感の違いを混同してしまうのだ。
 この混同を起こさない人間などは、普通はまず存在しない。(いたら多分聖人級だ) この問題から逃れられる例外的存在とは、今まで僕が知る限り2つのタイプしかいなかった。すなわち、生来ドケチで、一銭のカネもムダにしたくないと思っている人か、あるいは量的拡大が、個人にとって最大優先事項のカタルシスとなっている人間、つまり極度に誇大妄想的な性癖の持ち主かの、どちらかである。つまり、これは少なくともロジックで制御できる問題ではないのだ。だから、成功する経営者というのが往々にしてイヤな奴だったりするのも、これも仕方のないことなのだろう。
 概して、独立して会社を起こせるほどの人物は、個人としての能力は元来高いはずである。ものづくりを生業にする上では、最終的には個人の能力値の集積としての合計得点を向上させる以外の解決策はあり得ない。しかし、経営者の能力が10あったとして、社員にする人物も10だということは、まずあり得ない。仮にあったとすれば、それは一時的なミスマッチであり、社員の能力は良くても7とか8だろう。つまりその会社は、1人が2人になった時点で20ではなく、17とか18に下がる。『会社は経営者の器以上に大きくならない』という警句は、つまりこの単純な加算のことを言う。
ただし、加算ではなく『乗算効果』が起こる場合というのは、これは確かにある。だが、僕の経験のみで言うと、乗算効果というのはそんなに簡単には起こらない。自分以外の誰かを探す場合、この『乗算効果』を起こせる人物でなければならないと思う。逆に言えば、僕自身も誰かに対して『乗算効果』を出せる人でいたいなぁと思う。
 では、具体的にどんな人間であればよいのか?恐らくその条件は多いのだろうが、僕はまだ一つしか条件を見つけていない。その回答とは、「問題意識を自分と共有しているか」ということだと思う。
 曖昧な表現だが、まだ今はそうとしか言えない。

●一時的ミスマッチが許される業種は?
 さらに言うと、さきほど書いた「一時的なミスマッチ」も、業種によっては時としてチャンスになりえる。たとえば、スキルの蓄積が要らない仕事であれば、人がどんどん入れ替えることで「一時的なミスマッチ状態」をずっと維持していけばよいのかもしれない。ただし、そうした会社に知的資産の蓄積はできない。知的資産を蓄積しなくても良い業種ならば有効な手段だろう。たとえば、マニュアル化された業務をこなせばよい職種、つまり、「頭脳」と「手」が完全に分離している業種、たとえばファーストフードやコンビニの店舗経営などはそれに当たる。逆に言えば、「手」の部分がほとんどないIT業界には、このセオリーは全く適用できないということでもある。

●人材育成などするな
 僕が顧問業務を受託している某社で、「人を育てていかねばならない」という意見があるが、僕はそれには頑として反対しつづけている。『人材育成』などというのは、企業にとっては、シャチョーの接待交際費以上の最大級のゼータクである。そんなことは、「儲かって儲かって困りまんがな」とか言っている会社がやれば良いことである。人材育成コストを使うならば、その分のエネルギーで、スケール比の能力値、つまり質的な増大を高めることだけを考えねばならない。それが自らのコンピタンスを研ぎ澄ますことになる。少なくともITコンテンツを手がける業界において、極限すればスケールメリットなどはない。あるのはスケールデメリットだけである。

●負ける気はしない
 閑話休題。最近、某銀行系のシンクタンクが、次世代携帯電話に関する本を出した。内容的には僕が今まで書いたり、主張していたりすることと被る部分が多くあるため、早速購入して読んでみたのだが、細かい統計をデータとして用いることで論旨の説得力を高めようとしている部分(つまり、これがスケールメリットだ)以外、見るべき記述はほとんどなかった。
 (恐らくは)年収一千万円を越えるであろうスタッフを数名動員して、このぐらいのアウトプットだというならば、正直僕一人で別にいいよなぁと思った。だって全然お金掛かってないもの、僕なんか。(笑)


12月11日
ボイスチャットがチャットを変えた。

●ボイスチャットに対応したYahoo!メッセンジャー
 Yahoo!メッセンジャーがボイスに対応したので、ここのところ色々と見ている、いや、聴いているというべきか。
 ただし、僕はマイクを持っていないので、今のところ自分から「声を発する」ことはできない。もっぱら声を聴くほうの立場で参加している。マイクなど買ってこれば良いだけの話なのだが、正直なかなかそこまでは踏み切れないでいる。
 案の定というべきか、アダルトチャットにおけるボイス機能の使われ方は、「現象」としてはかなり面白かった。(だが、「コンテント」として考えたとき、正直何の魅力も感じなかったのも事実なのだが(笑))‐‐昔、ダイアルQ2が流行していた頃、自宅の電話をQ2回線にして、都合の良い時だけ電話を受けて、「テレフォンセックスの個人営業」をしていた一人暮らし女性が居たそうだが、現在のYahoo!チャットのアダルトチャンネルの中には、自発的な「聴くストリップ小屋」を開設し、一人の女性の周囲に男性が数十名群がって、その女性の「ステージ」を拝聴する、などというスタイルのものまであった。
 その一方で、主として言語の壁の問題で、文字だけでコミュニケーションするのが難しい、韓国や台湾、中国の人々が、ボイスチャットの導入とともに、かなり増えてきているのも、とても興味深い。中には「ココがヘンだよ韓国人」などという、自虐的なルームを開設し、文字とボイスによってどうにかコミュニケートしている韓国の人なども居た。これなどは、明らかにボイス機能がチャットに対してもたらした、プラス方向の進化だろうと思う。
 いや、国際交流の増加が『プラス』で、私設TELSEXを『マイナス』とみなすのは、もしかしたら偽善的かもしれない。少なくとも、そうした手段が提供されることで、各人は皆、前より少しハッピーになったはずなのだろうから。
 至極当然の成り行きだが、ボイスチャットによって、キーボードが苦手な人のチャット参加も増えたようだ。(チャットはメールなどと比べてもリアルタイムなので、どうしてもある程度のタイプスピードを要求する)その一方で、「ボイス禁止の部屋」のような、『文字だけのコミュニケーション』を重視する部屋もまた人気を呼んでいる。

●僕のチャット歴
 ‐‐僕自信は、チャット歴はかなり長い方だと思う。はじめてのチャットは24歳のときだから、もう14年近く前になる。相手は草の根BBSのシスオペさんと、1回線しかないBBSの「電話線」を占有してのチャットだった。初めてのチャットだというのに、そのシスオペさんに、半ば断言されるように、「三田さんは、パソ通向きの性格をしていますね」と宣告されて以来、確かに僕にとってパソ通(いまはインターネット&ケータイだが)は、欠かせないものになった。僕の初婚の相手はニフティサーブで知り合ったOLだったし、人生で二つ目に作った会社(僕はもう、そこの取締役は降りているが、現在、その会社はIPOプログラムに入っているらしい)も、そこで知り合った2人と共同で立ち上げたものだった。最初に企画&執筆した本も、26歳のときのニフティサーブでのチャット体験がキッカケになっているし、実は今でも、ニフティの某フォーラムのサブシスに籍だけは置いていたりする。

●高コストだった頃のチャットはヘンな空間だった
 Windows95がリリースされ、テレホーダイが登場し、つまりはネット接続にかかる費用が青天井ではなくなり、比較的誰でもチャットに参加するようになった頃から、逆にチャットはつまらなくなったように思う。昔のニフティ、つまり接続料金が1分10円で、その上電話料金もしっかり3分10円を課金されていた頃のチャットというのは、言いようもなくヘンテコな空間であった。もちろん会社の経費で接続し、仕事をサボってアクセスしている人も居たが、自腹でそれだけのカネを払う人間というのは、ひどく金銭感覚の乱れた刹那的なヤツであったり、あるいは、それだけの対価に見合う「価値」をチャットに見出していた人びとであったように思う。いわゆる「厨房(2ちゃん用語)」など、その高額なコストではほとんど存在を許されなった。
 いずれにせよ、当時のニフティのチャットにかなり変わった人々が多かったのは事実で、僕はもう、チャットでどんなにヘンな人に出会っても驚かない。

●(僕にとって)最近のチャットはつまらななかった
 僕はここ数年、ほとんどマトモにチャットをしていない。チャットの最大の欠点とは、恐ろしく時間を浪費することである。その上、職場でも接続できる環境だったりすると、仕事をしながらでも「あぁ、今頃あのコはチャットに来てるかな」などと考え出し、これが著しく集中力を低下させる。このようにチャットには覚醒剤の依存症もかくやと思わせる強い精神的依存性があるので、はまり過ぎると日常生活に支障をきたすことが多い。最初にやった本でも書いたが、僕は26歳ぐらいの頃、チャットのやり過ぎで、不眠症になりかかったことがある。
 では、以前それほどはまったチャットは、何故に(少なくとも僕にとって)つまらないと感じるようになってしまったのか?
 多分それは、常時接続の普及によって、チャットの意義そのものが変質したからだと思う。以前の、1分幾らで青天井だった頃のチャットというのは、まさに「時間イコール金銭」であった。それでもチャットをしつづける人間というのは、経済的に余裕のある、いわば高等遊民的な人物か、あるいは、身を削るように消費されていく課金に抗ってでも、あえて文字でコミュニケートすることに対して、何らかの強い願望を持っている人々だったように思う。
 現在のチャットというのは、言わばもっともカネの掛からない「暇つぶし空間」に堕してしまった。暇を持て余している人と話をしても、残念ながら僕自身は面白味を感じることはできない。現在、多くのチャットでもっともポピュラーな話題とは、季節柄スキーやスノボ、お決まりのコンピュータ、そしてクルマ、そして「芸能人で言えば誰に似ている?」である。正直なところ、チャットに対して強い動機付けを持っている人が以前ほど居るようには見えない。
 ‐‐このところ、「関心空間」や「レビュージャパン」などの、クオリティの高いユーザーコミュニティに感銘を受けていた僕としては、久々に訪れたチャットのこの状況には、逆に驚きを覚えてしまったほどだった。
 いずれにせよ、結果として、現在のところ僕にとってチャットはつまらなくなった。だが、その一方で冒頭に述べたような、ボイスチャットならではの新しい面白さも出てくるだろう。そして多分、これからもチャットコミュニケーションは変わっていくだろう。

●ケータイメールが普及した理由
 閑話休題。現在、20歳前後の若者が1日にケータイメールする本数は、なんと平均16通前後だという。数年前と比べても、これは驚異的な変化であり、ビジネスマンのみならず多くの社会学者や心理学者までが、この「メール文化」の時代に対して解説を試みるのも当然の話だとは思う。
 だが、多くの学者の議論には抜け落ちている視点があると思う。大多数の若い世代、特に高校生などにとって、メールを使う理由とは、実は「ケータイで音声通話していたら小遣いがもたない」というエコノミクス上の理由が一番大きいのだと思う。
 もしもメールがネット接続してリアルタイムでしか打てず、時間で課金されるようなシステムだったら、ほとんどの人は、あえてケータイメールなど使おうとはしないだろう。よく、「メールは電話と違って相手の都合を考えて送れるから良い」などと言う人が居るが、それはメールが普及した本当の理由説明にはなっていない。何故なら、音声電話だって留守番メッセージ機能があり、必要に応じてスイッチを切れば済む話だからだ。

●システムに簡単に左右されるデジタルコミュニケーション
 ライフスタイルや風習、そしてマナー、つまりは「文化」が、こうしたシステムやエコノミクスの都合で大きく左右されてしまうところが、ネットワークというものの本質的な脆さであり、そしてある種の人びとにとって、それは「チャンス」でもあるのだろう。何故なら、自然発生的なコミュニケーションと違い、デジタルなコミュニケーションというのは、将来の技術的フォーマット像さえ把握していれば、むしろ動静の予測はしやすいからだ。
 そういう意味で、新しいデジタルコミュニケーションの普及というのは、社会学や心理学の立場よりも、まずはエコノミクスの面から考察する方が、結果的に正確な予測ができると思う。「FOMA日記」の方で、僕がTV電話のエコノミクスを気にしている理由も、主として自分でそう信じているからだったりする。
 現在、法政大学の原田悦子教授のように、認知心理学の立場からTV電話などの映像コミュニケーションを研究されている方などもいらっしゃるが、もちろんその価値は大いに認めるとしても、TV電話が、いつまでも今のままのTV電話システムであるとは限らない。たかが料金体系が変わっただけで、チャットの質感が大きく変わってしまった例を過去に僕(たち)は見てきたわけである。それと同様に、TV電話にも、システムやエコノミクスに応じた、その時々の普及のあり方があるのではないかと思う。

(余談)
 この末法なる資本主義の世の中にあっては、村上龍に言われなくても、人心を決定する最大の要因が、「経済システム」であることは残念ながら間違いないだろう。悲しいことだが、もはやアートやクリエイティブに、何かを変えていくだけの力を見出すコトは難しいと思う。ニーチェは「トゥラトストラ」で、このような時代を「末人たちの時代」と呼び、驚くほどに象徴的な予言をしている。「その頃世界は狭くなっていて、もはや誰も統治しようとしないし、誰も統治されようともしない。どちらもあまりにも煩わしすぎるからだ」と。一体これをインターネット社会到来の予言と言わずして何と言う。有名な本だからご存知の方も多いと思うが、未読の方がいらっしゃったら、是非一読をお勧めしたい。う、脱線してしまった。

●画像コミュニケーションは、インターネットのあり方そのものを再度修正するかもしれない
 デジタルコミュニケーションが、システムやエコノミクスによって、どんどん変わっていってしまうものだと思うからこそ、僕は、妙に写メールやTV電話にこだわってしまう。人は誰でも美しいものが好きである。昔、「ネット美男、ネット美人」という言葉があったが、それはつまり、『見た目は二の次』という、文字主体のネット概念があったがゆえの存在なのだろう。
 先日、ヤフーチャットで少しだけ話した女の子が居た。性格は良いのだが、言っていることがよく判らないので少しいじめたら、こちらが何も頼んでいないのに、自分のJPEG画像をメールで送ってきた。正直言って可愛かった。(笑)
 つまり、彼女にとって『自分のJPEG画像』とは、最大のアウトプットパワーであり、『キラーコンテンツ』なのだろう。(決して冗談で言っているわけではない。その恵まれた容姿によって、彼女は経済的勝利を勝ち得る可能性だってあるのだから)
 僕はこのことを必ずしも否定しようとは思わない。むしろ万人がそれぞれの、『キラーコンテンツ』を持てばよいと思う。それが、文章なのか、音楽なのか、自分そのものなのか、匂いなのかは判らない。でも選択肢は多い方がいい。

 きっと、インターネットはいつまでも今のインターネットのままではない。15年前、女子高生がチャットをするなんて誰も想像していなかった。今から5年先になったら、(あのポケベルのように)『女子高生のメール文化』などはすっかり廃れていて、もはや文字など使わず、TV電話でジェスチャーやダンスで会話しているかもしれないと思う。

(ちなみに最近の僕は仕事中はほぼ常時、Yahoo!メッセンジャーを起動しています。このサイトと同じ“Chemicalwashed”という登録名ですので、もし良ければ気軽に声をかけてやってください。ただし不在のときも多いので、返事が無くても悪しからずです)

 

 
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