●ボイスチャットに対応したYahoo!メッセンジャー Yahoo!メッセンジャーがボイスに対応したので、ここのところ色々と見ている、いや、聴いているというべきか。 ただし、僕はマイクを持っていないので、今のところ自分から「声を発する」ことはできない。もっぱら声を聴くほうの立場で参加している。マイクなど買ってこれば良いだけの話なのだが、正直なかなかそこまでは踏み切れないでいる。 案の定というべきか、アダルトチャットにおけるボイス機能の使われ方は、「現象」としてはかなり面白かった。(だが、「コンテント」として考えたとき、正直何の魅力も感じなかったのも事実なのだが(笑))‐‐昔、ダイアルQ2が流行していた頃、自宅の電話をQ2回線にして、都合の良い時だけ電話を受けて、「テレフォンセックスの個人営業」をしていた一人暮らし女性が居たそうだが、現在のYahoo!チャットのアダルトチャンネルの中には、自発的な「聴くストリップ小屋」を開設し、一人の女性の周囲に男性が数十名群がって、その女性の「ステージ」を拝聴する、などというスタイルのものまであった。 その一方で、主として言語の壁の問題で、文字だけでコミュニケーションするのが難しい、韓国や台湾、中国の人々が、ボイスチャットの導入とともに、かなり増えてきているのも、とても興味深い。中には「ココがヘンだよ韓国人」などという、自虐的なルームを開設し、文字とボイスによってどうにかコミュニケートしている韓国の人なども居た。これなどは、明らかにボイス機能がチャットに対してもたらした、プラス方向の進化だろうと思う。 いや、国際交流の増加が『プラス』で、私設TELSEXを『マイナス』とみなすのは、もしかしたら偽善的かもしれない。少なくとも、そうした手段が提供されることで、各人は皆、前より少しハッピーになったはずなのだろうから。 至極当然の成り行きだが、ボイスチャットによって、キーボードが苦手な人のチャット参加も増えたようだ。(チャットはメールなどと比べてもリアルタイムなので、どうしてもある程度のタイプスピードを要求する)その一方で、「ボイス禁止の部屋」のような、『文字だけのコミュニケーション』を重視する部屋もまた人気を呼んでいる。
●僕のチャット歴 ‐‐僕自信は、チャット歴はかなり長い方だと思う。はじめてのチャットは24歳のときだから、もう14年近く前になる。相手は草の根BBSのシスオペさんと、1回線しかないBBSの「電話線」を占有してのチャットだった。初めてのチャットだというのに、そのシスオペさんに、半ば断言されるように、「三田さんは、パソ通向きの性格をしていますね」と宣告されて以来、確かに僕にとってパソ通(いまはインターネット&ケータイだが)は、欠かせないものになった。僕の初婚の相手はニフティサーブで知り合ったOLだったし、人生で二つ目に作った会社(僕はもう、そこの取締役は降りているが、現在、その会社はIPOプログラムに入っているらしい)も、そこで知り合った2人と共同で立ち上げたものだった。最初に企画&執筆した本も、26歳のときのニフティサーブでのチャット体験がキッカケになっているし、実は今でも、ニフティの某フォーラムのサブシスに籍だけは置いていたりする。
●高コストだった頃のチャットはヘンな空間だった Windows95がリリースされ、テレホーダイが登場し、つまりはネット接続にかかる費用が青天井ではなくなり、比較的誰でもチャットに参加するようになった頃から、逆にチャットはつまらなくなったように思う。昔のニフティ、つまり接続料金が1分10円で、その上電話料金もしっかり3分10円を課金されていた頃のチャットというのは、言いようもなくヘンテコな空間であった。もちろん会社の経費で接続し、仕事をサボってアクセスしている人も居たが、自腹でそれだけのカネを払う人間というのは、ひどく金銭感覚の乱れた刹那的なヤツであったり、あるいは、それだけの対価に見合う「価値」をチャットに見出していた人びとであったように思う。いわゆる「厨房(2ちゃん用語)」など、その高額なコストではほとんど存在を許されなった。 いずれにせよ、当時のニフティのチャットにかなり変わった人々が多かったのは事実で、僕はもう、チャットでどんなにヘンな人に出会っても驚かない。
●(僕にとって)最近のチャットはつまらななかった 僕はここ数年、ほとんどマトモにチャットをしていない。チャットの最大の欠点とは、恐ろしく時間を浪費することである。その上、職場でも接続できる環境だったりすると、仕事をしながらでも「あぁ、今頃あのコはチャットに来てるかな」などと考え出し、これが著しく集中力を低下させる。このようにチャットには覚醒剤の依存症もかくやと思わせる強い精神的依存性があるので、はまり過ぎると日常生活に支障をきたすことが多い。最初にやった本でも書いたが、僕は26歳ぐらいの頃、チャットのやり過ぎで、不眠症になりかかったことがある。 では、以前それほどはまったチャットは、何故に(少なくとも僕にとって)つまらないと感じるようになってしまったのか? 多分それは、常時接続の普及によって、チャットの意義そのものが変質したからだと思う。以前の、1分幾らで青天井だった頃のチャットというのは、まさに「時間イコール金銭」であった。それでもチャットをしつづける人間というのは、経済的に余裕のある、いわば高等遊民的な人物か、あるいは、身を削るように消費されていく課金に抗ってでも、あえて文字でコミュニケートすることに対して、何らかの強い願望を持っている人々だったように思う。 現在のチャットというのは、言わばもっともカネの掛からない「暇つぶし空間」に堕してしまった。暇を持て余している人と話をしても、残念ながら僕自身は面白味を感じることはできない。現在、多くのチャットでもっともポピュラーな話題とは、季節柄スキーやスノボ、お決まりのコンピュータ、そしてクルマ、そして「芸能人で言えば誰に似ている?」である。正直なところ、チャットに対して強い動機付けを持っている人が以前ほど居るようには見えない。 ‐‐このところ、「関心空間」や「レビュージャパン」などの、クオリティの高いユーザーコミュニティに感銘を受けていた僕としては、久々に訪れたチャットのこの状況には、逆に驚きを覚えてしまったほどだった。 いずれにせよ、結果として、現在のところ僕にとってチャットはつまらなくなった。だが、その一方で冒頭に述べたような、ボイスチャットならではの新しい面白さも出てくるだろう。そして多分、これからもチャットコミュニケーションは変わっていくだろう。
●ケータイメールが普及した理由 閑話休題。現在、20歳前後の若者が1日にケータイメールする本数は、なんと平均16通前後だという。数年前と比べても、これは驚異的な変化であり、ビジネスマンのみならず多くの社会学者や心理学者までが、この「メール文化」の時代に対して解説を試みるのも当然の話だとは思う。 だが、多くの学者の議論には抜け落ちている視点があると思う。大多数の若い世代、特に高校生などにとって、メールを使う理由とは、実は「ケータイで音声通話していたら小遣いがもたない」というエコノミクス上の理由が一番大きいのだと思う。 もしもメールがネット接続してリアルタイムでしか打てず、時間で課金されるようなシステムだったら、ほとんどの人は、あえてケータイメールなど使おうとはしないだろう。よく、「メールは電話と違って相手の都合を考えて送れるから良い」などと言う人が居るが、それはメールが普及した本当の理由説明にはなっていない。何故なら、音声電話だって留守番メッセージ機能があり、必要に応じてスイッチを切れば済む話だからだ。
●システムに簡単に左右されるデジタルコミュニケーション ライフスタイルや風習、そしてマナー、つまりは「文化」が、こうしたシステムやエコノミクスの都合で大きく左右されてしまうところが、ネットワークというものの本質的な脆さであり、そしてある種の人びとにとって、それは「チャンス」でもあるのだろう。何故なら、自然発生的なコミュニケーションと違い、デジタルなコミュニケーションというのは、将来の技術的フォーマット像さえ把握していれば、むしろ動静の予測はしやすいからだ。 そういう意味で、新しいデジタルコミュニケーションの普及というのは、社会学や心理学の立場よりも、まずはエコノミクスの面から考察する方が、結果的に正確な予測ができると思う。「FOMA日記」の方で、僕がTV電話のエコノミクスを気にしている理由も、主として自分でそう信じているからだったりする。 現在、法政大学の原田悦子教授のように、認知心理学の立場からTV電話などの映像コミュニケーションを研究されている方などもいらっしゃるが、もちろんその価値は大いに認めるとしても、TV電話が、いつまでも今のままのTV電話システムであるとは限らない。たかが料金体系が変わっただけで、チャットの質感が大きく変わってしまった例を過去に僕(たち)は見てきたわけである。それと同様に、TV電話にも、システムやエコノミクスに応じた、その時々の普及のあり方があるのではないかと思う。
(余談) この末法なる資本主義の世の中にあっては、村上龍に言われなくても、人心を決定する最大の要因が、「経済システム」であることは残念ながら間違いないだろう。悲しいことだが、もはやアートやクリエイティブに、何かを変えていくだけの力を見出すコトは難しいと思う。ニーチェは「トゥラトストラ」で、このような時代を「末人たちの時代」と呼び、驚くほどに象徴的な予言をしている。「その頃世界は狭くなっていて、もはや誰も統治しようとしないし、誰も統治されようともしない。どちらもあまりにも煩わしすぎるからだ」と。一体これをインターネット社会到来の予言と言わずして何と言う。有名な本だからご存知の方も多いと思うが、未読の方がいらっしゃったら、是非一読をお勧めしたい。う、脱線してしまった。
●画像コミュニケーションは、インターネットのあり方そのものを再度修正するかもしれない デジタルコミュニケーションが、システムやエコノミクスによって、どんどん変わっていってしまうものだと思うからこそ、僕は、妙に写メールやTV電話にこだわってしまう。人は誰でも美しいものが好きである。昔、「ネット美男、ネット美人」という言葉があったが、それはつまり、『見た目は二の次』という、文字主体のネット概念があったがゆえの存在なのだろう。 先日、ヤフーチャットで少しだけ話した女の子が居た。性格は良いのだが、言っていることがよく判らないので少しいじめたら、こちらが何も頼んでいないのに、自分のJPEG画像をメールで送ってきた。正直言って可愛かった。(笑) つまり、彼女にとって『自分のJPEG画像』とは、最大のアウトプットパワーであり、『キラーコンテンツ』なのだろう。(決して冗談で言っているわけではない。その恵まれた容姿によって、彼女は経済的勝利を勝ち得る可能性だってあるのだから) 僕はこのことを必ずしも否定しようとは思わない。むしろ万人がそれぞれの、『キラーコンテンツ』を持てばよいと思う。それが、文章なのか、音楽なのか、自分そのものなのか、匂いなのかは判らない。でも選択肢は多い方がいい。
きっと、インターネットはいつまでも今のインターネットのままではない。15年前、女子高生がチャットをするなんて誰も想像していなかった。今から5年先になったら、(あのポケベルのように)『女子高生のメール文化』などはすっかり廃れていて、もはや文字など使わず、TV電話でジェスチャーやダンスで会話しているかもしれないと思う。
(ちなみに最近の僕は仕事中はほぼ常時、Yahoo!メッセンジャーを起動しています。このサイトと同じ“Chemicalwashed”という登録名ですので、もし良ければ気軽に声をかけてやってください。ただし不在のときも多いので、返事が無くても悪しからずです)
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