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1月23日
Cybiko Xtreme(サイビコ・エクストリーム)の諧謔
Cybiko Xtreme
最近気がついたのだが、使用画像の著作権に不安がある場合、当該サイトへのリンクボタンにしてしまえば、問題にならないのではないかと。
(…だといいんだけどなぁ)

 先日もトップページの「Tips」でちょっとだけお伝えしたのだが、米国はCybiko社のティーンエイジャー向けPDA、「Cybiko Xtreme」が面白い。

 思わず買ってしまったのは、デメ研の主任研究員、亀田さんからのメールで「こんな面白いマシンがあるよ」というご紹介がキッカケだった。メールをいただく前にも一応、このCybikoの存在は知ってはいたのだが、言われみてはじめて、こんなに面白いマシンだと気が付いたのだ。その、自らの迂闊さが悔しくて(笑)、秋葉原はイケショップ(古いAppleユーザーにとっては懐かしい名前だ)のモバイルプラザに出かけて買ってしまったのだ。ちなみにこのCybiko、まだ正規輸入されていないため、国内で購入できるのは前述のイケショップや、秋葉原の1〜2店舗に限られるらしい。ちなみに本国では、Toys-R-Usでも買えるほどポピュラーな機種である。
 本国での価格は大体110ドル前後らしいが、イケショップでは25,000円ほどする。
 2台購入し、一台は前作の別冊宝島でお世話になった板倉雄一郎氏への誕生日プレゼントとすることにした。昔から同氏は、こういうバタ臭いマシンが好きな人なのだが、案の定バカ受けしていた。
 実際、このマシンは極めて面白いのだ。

●PDA、ゲームマシン、MP3プレーヤー、
  そして出会いのツール、Cybiko
 さて、ティーンエイジャー向けPDAとは言え、Cybikoは米国のマシンらしく、使用環境はUSBポート付きのパソコンを持っていることが必須となる。そのへんは子供向けマシンとは言え、立派にPalm並みのオープンアーキテクチュアな設計である。
 本体にはCD-ROMとUSBケーブルが付属している。(このケーブルがまた実に面白く、ケーブルの端を付属のDCアダプタに刺すと、そのまま充電用の電源ケーブルとして転用可能なのだ。なんという合理的設計!)Cybikoは、内部にアプリケーションをほとんど持っておらず、住所録やメモ帳、スケジューラや辞書(子供向けのマシンとは言え、スペイン語辞書がCD-ROMに標準搭載なのが実に米国らしい)などを好みに応じてPCからインストールする構成を取っている。液晶はモノクロ2値だし、スピーカーはピエゾ(圧電)方式で、ハードウェア的には実にプアーだ。漢字表示の必要がない米国ではこれで十分なのだろう。ただし、筐体は十分しっかりしており、写真のようにゲームパッドとキーボードが一緒になったようなボタン構成も、小さいながら案外使いやすい。キーボードのタッチも十分しっかりしており、おもちゃっぽさはない。
 しかも、本国であれば購入後、ユーザー登録をすると、拡張スロットに刺して使用するMP3モジュールがなんと無償でプレゼントされる。また、サイビコのサイトには、無償でダウンロードできるゲームソフトが数百本もある上に、なんと開発ツールまでも無償で供給されている。これで110ドルならばお買い得感は高いだろう。

 Cybikoの基本的な構成はPalm-OSに似ている。スイッチを入れるとランチャー画面となり、そこに自由にアプリケーションを登録しておけるというのも、Palmなどに似ている。一人で使うにはあまり意味のない機能だが、USBでPCに接続しておけば、サイビコからメールを読むこともできる。(購入者はユーザ―登録を行うと、「***@cybiko.com」というメルアドを一つもらうことができる)
 だが、Cybikoが画期的なのは、上の写真にもあるように、このマシンがワイヤレスの無線LAN機能を持っているということなのだ。

●出会いたい条件に合致する相手を見つける機能
 電波状態にもよるらしいが、Cybikoは、100m程度までの距離でお互いに通信ができる。メールやチャット、そしてPalmのような「名刺交換」の機能も持っている。チャットでは、自分でルームを開設して10名程度での同時チャットもできるらしい。(「らしい」と書いたのは、何せこの日本ではそんなに多人数で試せるチャンスがないからで、当然僕もまだチャットをやったことはない(笑))
 さらに面白いのが、Cybikoは電波圏内に居るCybikoユーザーから、自分のあらかじめ登録しておいたプロフィールに合致する相手が居ると、アラートを発して教えてくれるという機能があることである!登録するプロフィールは、自分のプロフィール、そして、『出会いたい』相手のプロフィール条件の両方を設定できる。性別や年齢層、趣味などの条件を設定しておき、合致する相手が電波圏内に入るとアラートを発して通信状態になるのだ。
モノクロ2値ではあるが、顔写真も登録しておき、プロフィールとして相手に閲覧してもらうこともできる。Cybikoは「出会いのツール」でもあるのだ。
 もちろん、単なるコミュニケーション機能だけではなく、チェスのようなベーシックなものから、リアルタイムのアクションゲームまで、ネットワーク対戦するゲームも多数用意されている。


「オモチャ」だから、プリスターケース入りなのである。
アメコミチックな感じ。

●同時に3000台まででネットワークを組める
 さらに
僕を感動させたのは、ネットワークの発想である。Cybikoはおもちゃのトランシーバー並みの、免許不要の微弱な電波で通信するため、先ほども書いたように電波の到達距離はせいぜい100mぐらいらしい。ところがCybikoは、電波圏内に最低1台でも同じCybikoユーザーが居れば、今度はその相手のCybikoの電波が届く圏内の相手とネットワークで繋がることができる。
 その相手もまた同様にネットワークで繋がるのだが、最大3000名まででネットワークを組めるため、一台の電波到達距離を越えて、理屈の上でははるか遠方のユーザーともネットワーク接続することができる。要するにバケツリレーのように、一台一台がネットワークのハブとなることができるのだ。
 玩具だというのに、これはもはや完全にTCP/IPの発想である。

●アメリカで「imode」は普及するのか?
 従来、『アメリカ人は日本のケータイのようなチマチマしたものは使わないだろう』と言われてきた。確かに、かの地では猫も杓子もケータイを持つというようなことはないそうで、携帯電話はあくまでビジネスツールであると考えられており、女子高生がケータイメールで繋がるようなイメージがあまりないらしい。
 だが、Cybikoがアメリカで大ヒットしている状況を見ると、決してアメリカにそうした「ケータイ文化」がないわけではなく、むしろインターネット先進国として、日本などよりもはるかに「モバイルネットワーク」というものに対するイマジネーションが豊かだとあるということを改めて痛感する。そういう意味でも、アメリカにおけるこのCybikoのブレイクぶりはもっと注目されるべきだろうと思う。

 さてこのCybiko、日本で普及することはありえるだろうか?
 残念ながら、やはり難しいだろうと思う。まず、日本語を使うためにはCPUパワーや液晶解像度などに難点があるわけだが、そのへんをパワーアップしたら、玩具として許容されるコストを超えてしまうだろうし、何よりも、パソコンが必須という動作環境は日本では難しいだろう。そういう意味では、やはりCybikoは日本では好事家のおもちゃであり、実際この「Xtreme」については、国内では多分まだユーザーは100名とかそんな規模だろう。というわけで、僕がこのCybikoで誰かと『繋がる』チャンスは、これからも多分ほとんどないだろう。(笑)
 それとももしかして、このCybikoを持って秋葉原を歩いたら、案外誰かとつながれるのかもしれない。でも、どっちかというと、それは僕にはあまり歓迎したくない出会いかもしれない。(笑)

 面白いのは、このCybiko社というのは元々ロシアのメーカーらしい。テトリスといい、ロシアという国は時々面白いモノが出てくるね。
 ちなみに現在、Cybiko社は既にAOLによって買収されている。ただし、AOLが今後どの程度Cybikoをサポートするのかはまだ判らない。


4月30日
このホームページそのものの話

 うぉ、なんと久しぶりのコラムでしょう。前回「Cybiko Xtremeの諧謔」以来、まる3ヶ月と少しが経過してしまいました。
以前は平均週一ペースで掲載していたコラム、これほどペースダウンした理由は、特に多忙だからというわけでもなく、トップページの「TIPS」の比重が上がったせいでもあります。以前は、「日記だかコラムだか判らない、ゴチャゴチャの雑文」というのがこのコーナーでしたが、日記的記述については「TIPS」に回し、この場所はまとまった「コラム」としたことで、逆に、気軽に書くには敷居の高い場所になってしまったんですね。(自分のページで自分に敷居高くしてどうすんだか(笑)) 今回も久々のコラムゆえ、かなりまとまった「論」を書いてみようかと思ったんですが、その前にちょっとプライベートな話をしてみようかなと思います。
 そうです、このホームページ「Chemicalwashed!」そのものについてです。

●ウィークデイのユニークアクセスは平均55人程度
 平日のユニークアクセス(同一人物の複数アクセスを勘定に入れないアクセス数)は、平均して55人程度。週末のアクセスは大きく下がって、その5〜6割前後となります。一般に、まったく趣味的な個人サイトでも、週末はアクセスが下がる場合が多いのですが(「侍魂」のようなサイトですらそうです)、ここは特にそれが顕著です。
 またウィークデイアクセスでも、昼間アクセスが多く、夜間アクセスが少ないのが特徴です。昼間の個人系プロバイダからのアクセスも比較的多いようです。このような傾向から、このページはビジネスマンが職場からアクセスする比率が非常に高く、また、SOHOやフリーランスなど、個人事業者のアクセス比率も比較的高いものと推察されます。
 あと、顕著なのはNTマシン比率の高さです。なんと、アクセスの25%程度がNTマシンで、技術系職種、あるいはネットワーク関連職種の方のアクセス率が高いのだろうと推察されます。

 ちなみに、このページから分岐独立した、FOMAとTV電話の情報サイト「The FOMA-de.TV」は、1日のユニークアクセスは平均して200名前後で、NTマシン率に至ってははなんと3割。アクセスが集中する時間帯は13時〜14時、夕方、そして23時前後です。(これは、WEBアクセスの時間帯としては、いたって平均的なカーブです)FOMA-de.tvについては、週末のアクセスの落ち込みはさほど顕著ではなく、個人ユーザーの比率も比較的高いことが伺えます。

●リピーター率高く、新規アクセスユーザーの定着率が低い
 このサイトの顕著な特徴として、「新規アクセス者が少なく、来訪者の推定95%以上がリピーターによって構成されている」ことがあります。FOMA-de.TVの方が、新規アクセス比率が(推定)3割以上はあるのと比べ、顕著な特徴を構成しています。しかも、週4回以上訪れてくださる「ヘビーリピーター」の率が大変高く、月に2〜3度という、「ゆるやかなリピーター」の比率を大幅に上回っています。こうした現象の理由として考えられるのは以下のようなものでしょう。
 (1)内容が万人向けでない、または面白くない。(ごく一部の方以外には)
 (2)他サイトから貼られているリンクの数が少ない。
    (これは、推察というより明確な「事実」ですが)
 (3)口コミ(ネットコミ)が発生しにくい内容である。
 (4)新規来訪者にとって、「サイトの全体像を掴みにくい」と見なされた。
    (新規来訪者が一度に閲覧するページビュー総量が少ないことから)
などが挙げられると思います。このほか、「繰り返し来訪する必要性が薄いサイトである」という可能性もありますが、これについては(4)の傾向が顕著なため、多分当たらないと思います。なぜならば、もし新規来訪者にとって、内容が面白く、しかしリピートの必要が少ないサイトであったならば、初回のページビュー総量だけは大きくなるはずですから。

●年齢性別の特徴は不明、仕事関係者のアクセスは僅少、iモード版ほとんどアクセスなし

 年齢層や性別の特徴については不明です。ただし、このページを見て、ビジネス絡みでない、純粋なプライベートでメールをいただいた方(それほど多くない)は、ほとんどが20代後半、技術職の男性の方でした。勿論例外も多いですが。
 仕事関係者、取引先などのアクセスはあまり多くなく、リピート率も低いと推察されます。

 また、最近は更新すら止めてしまいましたが、imode版のアクセス率の低さも特筆しておくべきかもしれません。僕自身は、このサイトのような、時事的ネタもあり、しかもテキスト主体のサイトというなら、何も机にかじりついて読まなくても、ケータイからユビキタスな暇つぶしとして読んでくれた方が良いかと思って、試験的にiモード版を作ってみたのですが、結果は惨憺たるもの。(笑) 僕の持論として(というよりもう定説ですが)「iモードコンテンツのビジネスマン利用率は低い」というものがありますが、それは、このへんの実感からきている部分もあります。

●そもそもこのサイトは、何のために存在していたのか。
 このサイト「ChemicalWashed!」は、もともと2001年5月末に出た、僕の5年ぶりの(編)著作「携帯電話ビジネスへの挑戦者たち!」に付随してスタートさせたもので、生まれてはじめて、DreamWeaverを作って自身でシコシコ作ったものです。ネットワーカー歴13年で、もともとゲームビジネスやインターネット・携帯電話ビジネスに携わっていた者として、2001年になって自分のホームページを持つというのは、あまりに遅きに失した感もありますが、実際のところはむしろ、ホームページを作れない理由があったのです。
 まず、それ以前の10年間に渡って、僕はゲーム開発会社の経営者でした。実名でホームページを公開した場合、取引先や社員がページを閲覧するだろうことを考えると、個人ページを持ったところで書けないことが多すぎました。それは、経営が必ずしも芳しくない時期も存在したことや、雇用していた社員との人間関係など、要するに「公」と「私」を同じスタンスにできないという事情があったからです。また、デジタルクリエイティブについては、少なくとも一応「プロ」であるという矜持もあり、「作るからには半端なものは作れない」という気負いがあったのも事実です。
 だからといって、仮名やハンドルを使って、ネット人格だけの匿名のページを作るという気持ちもさらさらありませんでした。2ちゃんねるが隆盛を誇る以前より、ネットワークは匿名コミュニケーションの場所としての価値が強調されてきましたが、僕自身は、いちばん最初に上梓した本「裏パソコン通信の本(’94年)」の頃より、「ネットワークの匿名性」については(その有用性も認めつつも)一貫して批判的スタンスを取ってきました。「ネット上の仮面」を被ったとき、人がどこまで無責任になり、品位下劣になれるか、僕はそうした実例を過去にあまりにもたくさん見すぎました。
 堂々たる署名なき言説など、何の価値があるでしょうか。

●かけ離れてしまった「公」と「私」の顔
 元来そう考えていたはずの僕なのに、35年ぐらい生きてきた時点で、さまざまな矛盾が体の中に堆積してきてしまったんですね。よく、「ウソも営業トークのうち」なんていいますけど、ウソというのは一度つき始めたら歯止めがききません。「会社のため」「社員のため」などと思ってついていた営業トークが、いつの間にか「自分の保身のため」や、「この状況を変えたくないため」のウソに発展していくのを僕は実感していました。
 ウソを付いている人間は、誰より先にまず自分を騙すものです。僕の「公」の顔と「私」の顔は、どんどんかけ離れていきました。‐‐社長としての顔、取引先にへつらう顔、社員にしたり顔で建前論を訓じる顔と、「私」の顔、バンド活動に興じたり、女の子と遊んだり、大規模なオフ会の幹事をやったりする顔は、きっとまるで別人に見えたことだろうと思います。
 「類は友を呼ぶ」とはよく言ったものです。こうした状況で、僕の周囲に集まってきた人間とは、皆「ウソも方便」であり、「本音と建前」が別なのは当たり前、「誠実」という言葉など、数十年の人生の彼方へ置き忘れてきてしまったような者ばかりでした。そうです、あの「ITバブル」です。結果的に、自分が10年に渡って経営してきた会社は、あるベンチャーに営業譲渡しましたが、ディスクローズなきベンチャーなど、大概は上手く行くはずもないんです。経営は失速し、僕は「クズ会社を売りつけた奴」として、責任を問われることとなりました。(とはいえ、実際は営業譲渡の覚書すらマトモに締結されておらず、今にして思えば「もし上手く行かなかったら三田に責任を押し付けてやろう」という意図も見え見えな約束だったわけですが)
 提携を行ったときは、不必要なまでに蜜月ムードで、僕が提出しようとした過去数期の決算書にも、まともに目も通そうともしなかった連中です。「判ってない奴」と、ナァナァムードで仕事をはじめることがどれだけ恐ろしいか、理屈ではわかっていたつもりでも、僕は実感としては全然わかっていなかったんですね。
 これを読んでいるあなたは、3〜4時間に渡って5〜6人の人間に取り囲まれ、「どうしてくれるんだ」、「この始末の責任を取れ」と責められたことがありますか?(笑) 健康には自信があり、どんなプレッシャーにも胃痛すら覚えたことのない僕でしたが、このときはさすがにこたえました。サウナで休養中、突然左半身が麻痺してぶっ倒れ、大も小も垂れ流しで救急車で運ばれました。半日して全快しました。病名は「自律神経失調症」だったそうです。

●再び公私をつなぎ合わせるための場所
 このベンチャーの行く末については、まだ詳細を公に語ることを許されません。僕はこのベンチャーの経営を降り、いち個人に戻りましたが、まだ利害を背負っている者が存在しているためです。
 いずれにせよ僕はいま一人であり、妻子とも別れたとはいえ、健康でもあり(まだ時々左半身に軽い痺れを覚えるときはありますが)、幸い自己破産など最悪の事態からも免れました。それからの1年は、かけ離れてしまった公私を再び一つにするための場所として、このページが存在したような気がします。そして、「携帯電話」という、日本発の未曾有のサブカルチャーに、かつてゲームビジネスが勃興したときと同じような興奮を覚えたりもしました。今だから言いますが、「携帯電話ビジネスへの挑戦者たち!」は、誰よりも自分自身のために企画しました。一体、何かを勉強したいとき、いちばん効果的な方法は、それについて本を書くことですからね。(笑)
 「口コミが発生するメカニズム」として、「15秒以内で内容を説明できる」というものがあるそうです。そういう意味では、このサイトは「簡単に伝達される」ことを、むしろ拒否するスタンスでやってきたかもしれません。

●終わりつつある、このページの役目
 この1年の間、時間は比較的緩やかに流れました。その間に、このページも多少営業ツール色を強め、「三田隆治のワンマンシンクタンク」などという、若干強気なサブタイトルに変えてみたりもしました。某大手企業のIT部門で重責を務めている友人からは、「あのキャッチフレーズはいいねぇ。この時代に『牛丼一杯300円!』みたいな明快さがあるよ」などと誉められたりもしました。しかし実際のところ、このページが事業面で何かの接点を作ったり、ここから仕事が発生したり、つまりは「営業ツール」として、このページが何かの役に立ったことはほとんど皆無に近かったんですね。(笑)
 考えてみれば当たり前の話なんですが、僕は11ヶ月このページをやってみて、やっと初めて気がついたんですね。(^_^;企業にせよ個人にせよ、僕ぐらいの年齢と役割の者に対してビジネスリレーションを持とうとする人間は、大体は35歳以上である場合がほとんどです。個人差は大きいとはいえ、そのあたりの世代の多くは、そもそも個人ページを見て人を判断するという、そうしたリテラシーを持たないんですね。(笑)
 僕は現在、「プランナー」と「ライター」という二つの肩書きを名刺に入れてますけど、意外にも、この両方に対して、このページは驚くほど役に立ってません。(笑)少なくともライター方面ならば、ここのコンテンツを見れば、大体何が書けそうなのか判りそうなものなんですが、編集者というのはヘンな人種で、わざわざ出版された本や雑誌のコピーを求めたりするんですね。そもそも、こんな『陰口』に近い発言をここで堂々とできるのも、編集者がここを読む確率がいかに低かったか、この1年で判ったせいもあるんですが(笑)。もしかして、僕が予想していた以上に、「個人ホームページなどというのはお遊びで、仕事には関係ない」という偏見が根強く存在しているのかもしれませんね。

●残念だったのは、このページ発の交流が生まれなかったこと
 しかし、もっとも残念だったのは、ビジネスに関係なく個人としての立場で、感想や質問、そして非難のメールをくれた方が少なかったことです。正直言って、いちばん困るのは「その通りだと思います」というメールです。(笑)同意を表明してくれることはありがたいのですが、こういうメールには「ありがとう」という以外、返事のしようがないんですよ。(笑) ここでは歯に衣着せず、かなり言いたい放題言ってきたつもりなんですが、「エラそうなこと言うなよ」という怒りのメールすら一通も届いていません。本当は、そういうメールを期待していたというところもありますが、残念ながら、このページ発で生まれた人間関係はほとんどありませんでした。これがもっとも残念なことです。
 実のところ、1年ぐらいでユニークアクセス100〜150人ぐらいに育てばいいなと思っていたのですが、この内容、この構成でページをやっている限り、多分アクセスは増えもしなけれれば減りもしないということになりそうです。
 いずれにせよ、今のかたちのままでの、このサイトの役目はそろそろ終わりつつあるようです。

●ときとして、不要な虚飾、わかりやすさも必要なのかも
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、現在、有限会社の名義は、相場で5万円ぐらいで、資本金1000万円の株式会社でも、名義の買い取りは50万円程度でできます。(加えて登記変更の費用が30万ぐらいはかかりますが)世の中はどんなものでも売買の対象になるんですね。バブルの頃に税金対策で作られた会社など、休眠会社を「名義売り」するビジネスというものがあり、個人でも『法人』のフリをするのは実はたやすいことなんです。
 たとえば、100万ほど用意してそうした会社を買い取り、友達の会社に電話一本も置かせてもらって、「株式会社ナントカソリューション(笑)」みたいなのを開業することは可能ですが、僕はもう、そんな誇大広告はゴメンなんですね。(笑) そゆうのはばかばかしい虚飾であって、仕事をアウトソースするクライアントの立場からしたら、「虚飾のコスト」を払うのはくだらないことだと思っているのですけど。でも、どうやらそう思わない人がまだまだ多いらしいんですね。この日本、まだまだバブル期とそれほど変わってません。
 しかし、そろそろ僕の中で、この数年続いた、「うそつき嫌悪症候群」も、そろそろ終わりつつあるようです。
 まるでモテなくて世をすねてる童貞クンのように、ここ1年とチョイばかり僕は、『自分は正しくて世の中が間違ってる』と言い続けてきたわけですが、正直なところ、最近スネてるのも少し飽きてきました。(笑) 少しづつ、真の「社会復帰」するための準備をするべきなのかもしれません。
 やはりライター業だけっていうのは、僕にはラクすぎてつまらないんです。(笑)

5月9日
モーニング娘。マーケティング本ブームに見る陥穽
(2002年7月8日:一部を削除しました)
(2002年7月8日:追記) 著者の浅野光陽氏より、5月9日に掲載された当該コラムについて、「著者のプライバシーに関する部分を公開している認識はない」という旨のご連絡をいただきました。そこで、当該部分については削除させていただきました。関係各位にご迷惑をお掛けした事項がございましたらお詫び申し上げます。
 昨年の8月に掲載した「極私的モー娘。論」以来、ひさびさにモー娘。の話題です。
 当時僕は、向こう1年の脱退者はズバリ3人(保田、後藤、辻)と予測したのだが、今のところ、まだ誰も脱退していない。 しかし、「13人体制」という、誰が見ても多すぎる状況が長らく放置されているその事実こそに、僕はモー娘。のマネージメントを行っている芸能プロ、アップロントエージェンシー(以後「UFA」)が直面している問題を見る思いがする。
 モーニング娘。を一つの「成功実例」として捉えるべき時期は、とっくの昔、2年前で終わったと僕は考えている。現在のモー娘。人気が象徴しているものとは、むしろ現在の日本が抱える問題の縮図だと思うのだ。まるで、政府の不良債権処理や構造改革の遅れにオーバーラップして見えることすらある。(わははは。大ゲサだなこりゃ)
 そして最近になって、モー娘。ブームに便乗して登場した数冊の本を読み、それらの著者の視点を見るに及んで、「成功ケーススタディ本」と言われるものの多くに見られる構造的な問題点について、以前から感じていた違和感が何なのか、ハッキリ意識できたような気がした。
 今回はこの二つの視点からモー娘。を斬ってみたい。

××××社員が書いた、「モー娘。」マーケティング論
(2002年7月8日:会社名を伏字としました、「×」の文字数と実在する会社名には関係ありません)
 「モー娘。の経済学-国民的アイドルに学ぶ、時代の流れを読みきるマーケティング戦略(オーエス出版社)
 著者の朝野光陽氏…(以下、203文字削除 2002年7月8日)…1963年生まれ(僕と同じ年齢だ)というのはいわゆる「新人類世代」に当たるが、この世代はよほどのアイドル好きかロリコンでない限り、直接「おニャン子クラブ」の洗礼を受けた世代ではあるまい。少なくとも僕自身は、あの「おニャン子ブーム」に乗ったクチではない。
 さて、僕がこの本を一読して気になったのは、そのフザケた内容である。いや、いくらフザけていようと、それ自体を非難するつもりは毛頭ないのだが、少なくともタイトルに「マーケティング戦略」を謳うからには、それなりの結論を提示してもらいたいと思うのが筋ではないか。ところがこの本では、冒頭からいきなり、「上っ面の議論ばかりしている経済学者はモー娘。を通して日本経済を見ろ」であるとか、「モー娘。を参考に日本経済再生のためのアイデアを」などと言ったかと思うと、すぐに、「いや、正直いうと経済学者なんかどうでもいいんです」などと、真っ当な批評をかわすかのような発言で前言撤回している。巻末プロフィールでも「ヲタの皆さん、手厳しい意見はなるべくやさしくオブラートに包んで…」などなど、やたら右顧左眄した発言が目立つ。正直言ってあまり誠実さの感じられる本ではない。全体に造りも粗く、また、モー娘。に対する基礎的な事実収集も大して行われておらず、いかにも本業の片手間に書き飛ばしたような印象だ。
 だが、僕がこの本を読んで感じたもっと重要な印象は。これより他に二つある。一つは、この本がモー娘。の成功実例を「結果論」として語っているところ、そして、この本において文章の主語となる対象者、つまりは「行為者」の存在ががほとんど明確になっていないことである。

●「保田圭・脱不良債権化」、真の問題は、誰がそれを成し遂げたか?ということ
 同書では、かつて「モー娘。永遠の人気最下位」と呼ばれた保田圭が、「モー娘。内の不良債権であった」というように、経済用語を用いた説明がされている。そして、保田圭が、「うたばん」での、とんねるず石橋の発言、「最近、オレの中で保田ブームが起こってるんだよね」以来、「汚れキャラ」としてキャラクターを確立し、脱不良債権化したと解説している。
 これは確かに事実ではある。「うたばん」における石橋の執拗な保田圭イジメ、「なんでオマエがモー娘。なの?」「早く脱退しちまえ」などの一連の暴言は大きな反響を呼び、天下の朝日新聞TV欄の投書にまで、「石橋さんはヒドいと思います」「圭ちゃんが可哀想」など、多くの同情票を集めたことは事実だからだ。結果的に、保田圭マニア(2ちゃん用語では「ヤスヲタ」と呼ぶ)は、「オルタナティブ」として大きな勢力となり、今やインターネットのどの検索サイトでも、「検索ワード・保田圭」はメンバー中トップに近いランキングになっている。マニア層が多いPCインターネット層と、「通好みの保田」というキーセンスがどこか一致したのだろう。驚くべきことに、現在の保田圭は、かつてモー娘。の顔と呼ばれた安倍なつみや、後藤真希よりもインターネットで検索される存在になったのだ!
 同書で朝野氏は、この「結果」をもって、「保田圭は自らのキャラクター(個性)を明確にすることで、脱不良債権化された」と、一見経済解説本めいた説明を行っている。しかし、この本が「マーケティング戦略」を解き明かす本だというならば、真に問題とすべきは、この文章の「主語」になる部分であるはずだ。つまり、この「保田圭の脱不良債権化」は誰が意図し仕掛けたのかということが大事なのだ。行為者を明らかにしない限り、「モー娘。戦略」の真の狙い、コンセプトが見えてくるはずはなく、それでは単なる結果論を経済本めいたレトリックで語っているに過ぎない。

 ここでできれば、以前に掲載したコラム「極私的モー娘。論」を読み返していただきたい。保田圭とは、第二次追加メンバーとしてモー娘。に加入以来、一貫してメンバー中、事務所によってもっとも冷遇されつづけてきたメンバーであった。「恋のダンスサイト」においては、ヴィデオクリップで、踊りをミスって止まってしまう保田が、なんと「そのまま」収録されており、事務所がいかに保田圭を軽んじていたかよくわかる。
 ハッキリ言おう。モーニング娘。における保田圭・脱不良債権化という「離れ業」は、決してモー娘。をマネジメントしていた事務所のUFAによって成し遂げられたものではない。モー娘。を理解しようとする場合、ここが大切なポイントなのだ。この「離れ業」は、「うたばん」の石橋、そして(恐らくは)そのバックにいるであろう、秋元康の仕掛けと見るべきだろう。「うたばん」という人気番組にとって、モー娘。は、視聴率を稼ぎ出してくれる大切なドル箱である。ところがモー娘。は事務所の近視眼的儲け主義のせいもあり、タレントとして大切な芸である「トーク」に磨きをかけてきたメンバーは皆無に近い状況である。歴代モー娘。でもっともトークに秀でたメンバーとされてきた中澤裕子が、脱退以来、「笑っていいとも!」などでさらしている醜態を見るがいい。トーク猛者揃いの「いいとも!」レギュラー陣にあって、中澤はまるで存在感を主張できておらず、降板も時間の問題だと見られる。中澤ですらこんな状況なのだから、他のメンバーは推して知るべしだろう。
 事実、かつてドシロートのアイドル集団「おニャン子クラブ」を産み出し、最近では「野猿」のような、「アイロニーとしてのアイドル」という、極めてトリッキーなプロデュースを成功させてきた秋元康である。秋元康は、モー娘。において最も面白い存在とは、ステレオタイプなアイドル安倍なつみなどではなく、保田圭の存在それ自体であるとすぐ見抜いたはずだ。--実際、秋元康は、深夜番組で、つんくとトークしたとき、頭の軽そうな女性アシスタントの質問、「なんで、保田圭がモーニング娘。にいるんですか?」に対して、つんくが返答に窮している間に、間髪を居れずただ一言「バランスだよ」という名言を残している。
 トークに比重を置く「うたばん」としては、無理やりでも彼女たちのキャラクターを作り上げ、引き出す必要性があったのだ。それが証拠に、現在定着している各メンバーのニックネームを見てみるがいい、ジョンソン(飯田圭織)、ごっつぁん(後藤真希)、子泣き爺(保田圭)など、すべて「うたばん」でつけられたニックネームである。所属事務所のUFAには、曲がりなりにもアイドルとして売り出しているタレントに対して「ごっつぁん」などというニックネームをつけるだけの思い切りがあるとはとても思えない。
 こうした一連の事態について一つだけ言うならば、UFAが、TV業界で政治力のないマイナーな事務所だったことが、むしろプラスに働いたという「幸運」が挙げられるだろう。かつてモー娘。をデビューさせた「ASAYAN」も、「うたばん」も、他の事務所であればNGが出るような過酷な扱いを、UFAのモー娘。に対しては気兼ねなく行うことができた。これが「結果的に」モー娘。人気に繋がったというならば、それは単なる「幸運」に過ぎないのであり、成功事例として学ぶべき「何か」がそこにあるとは思えない。
 つまりこれは「マーケティング戦略」などではなく、「マーケティング的幸運」と呼ぶべき内容なのだ。

●モー娘。、存在の二重性…「正統派アイドル」像と「アイドルのセルフパロディ」像
 ここでモーニング娘。の歴史を簡単に紐解いてみよう。モー娘。は、ASAYANの「女性ロックヴォーカリストコンテスト」に落選したメンバーを集めて創られたユニットである。吉本興業が牛耳るASAYANにおいて、番組のプランニングスタッフたちは、今の時代、もはや「アイドル」が文字通りに「虚像」でしかないことを知り抜いていた。いかに飾り立てようとも、アイドルの実態は多くがヤンキー崩れか、偏差値40以下の少女たちであることなど、いまでは誰もが知っている。モー娘。とは、そうした時代の中で、「旧世代アイドルのステレオタイプ」という形態を維持しつつも、誰もが知りたいその裏面を積極的にディスクローズ(公開)していくことで、自らのアイドル像をセルフパロディ化するという重層的な構造をもっていた。言ってみれば優れてポストモダンなアイドル像である。
 それが証拠に、初期のモー娘。においては、「メンバー間は仲が悪い」「鼻ピアスをしたメンバーがいる」「短大卒でOLをやっていて彼氏と別れて上京した」など、スキャンダラスな面ばかりをむしろ積極的に強調してきた。こうして自らのキャラクターを立てる作戦をを成立させた裏には、アイドルオタクを自認するつんくの手腕もあったが、「恋のダンスサイト」の頃まで担当マネージャーであった、和田氏の功績も大きいと言われている。
 ところが、「LOVEマシーン」がミリオンヒットし、「国民的アイドル」ともてはやされるようになった頃より、こうした空気は微妙に変化していく。思わぬドル箱に成長したモー娘。に対して、UFAの社長氏がすっかり舞い上がってしまったのだ。初期モー娘。のプロデュースは、もともとはASAYANスタッフと、音楽プロデューサーのつんく、そして和田マネージャーという、マネージャーのくせに自らラジオDJを務めることができるほど頭の切れる男によって成し遂げられてきた。ところが、モー娘。がミリオンヒットを出し、紅白にも連続出演するに及んで、マイナーなプロダクションの経営者だった社長は、モー娘。に対して自らの発言権を強めようとしていく。よくある話である。
 実際、同社長はこの時期に「サイゾー」の電話インタビューに答えて、「モー娘。の音楽的なプロデューサーはつんくだが、ああした形態を考え出したのは全てオレだ」というような、とんでもないコメントをしている。今の時代、アーティストを育てるときにセットとしてプロデューサーの存在感は無視できないものである。にもかかわらず、こうしたファンを混乱させるコメントを、事務所の社長が平然とすること自体、この経営者の器も知れるというものだ。
 結果としてUFAは、ASAYANとの関係性を断ち切り、マネジメントにおいて意見の相違が目立つ和田マネージャーをモー娘。の担当からも外し、海のものとも山のものともわからぬC級タレント「EE Jump」の担当に回してしまうのだ。

 余談だが、「EE Jump」の軌跡を振り返ってくると、改めて和田マネージャーがいかに辣腕であったかよくわかる。実際、「EE Jump」ほど、実力に反比例して露出度が高かったタレントはいないと思う。どう考えても一流アイドルにはなれそうにない、単なるぽっちゃり娘のソニンに対し、「曲中に無理なバック宙をさせる」という、タレントいじめとも取れる行為をワザとさせることで、「EE Jump」は、誰よりも先にまず、歌番組のMC(司会者)に「同情的共感」を起こさせることに成功した。たとえば、「ミュージックステーション」において、このバック宙の話題が出たとき、ソニンからそれを聞かされたMCのタモリは、生放送にも関わらずハッキリ判るほど怒りを顕わにし、「そんなこと断らなきゃダメだよ!何をさせるつもりなんだ」と、ソニンをかばおうとした。実際色々な番組を見ると、「EE Jump」のソニンほど、実力に反して同業のタレントに愛され、可愛がられているタレントはいない。こうして自らを悪役に仕立ててまでタレントを売り出し、ユウキの不祥事すらプロモーションの一環にしようとした和田マネージャーの手腕こそ評価されるべきだが、ついに「ユウキ脱退」という事態に至ったのは実に残念なことだ。

●モー娘。が何故ウケたか、曖昧になる一方のマネジメント
 以降のモー娘。の軌跡を見れば、もはやモーニング娘。が、UFAにとって、単なる「既得権」化した存在に過ぎなくなったことがよくわかるだろう。そして、同社長は、アイドルがステレオタイプのかわい子ちゃんだった頃の70年代の幻想から、いまだに全く抜け出ていないようだ。ハッキリ言うと、この社長はまったく時代が見えていないのではないか。UFAのアイドルプロモーションを見ていると、1980年代後半のおニャン子クラブと比べても古臭さが際立って感じられる。
 その証拠が、UFAが総力を挙げてプロデュースしたアイドル、松浦亜弥だ。愚直なまでに正統的かつ平均点主義的アイドルである松浦亜弥をよく見てみると、好き嫌いは別として、そのアベレージの高さには驚かされる。まだ15歳なのに澱みのないトーク、モー娘メンバーの誰より優れた歌唱力、実は抜群のスタイルと、まさに全方位的に抜かりのないキャラである。しかし実際のところ、時代を象徴するアイドルというのは、こうしたスペック主義で創られるわけではない。大根足がアンバランスでソソると言われた吉永小百合、決してかわい子ちゃんとは言えない山口百恵、O脚の松田聖子、不良イメージの中森明菜と、時代を築いたアイドルはみな欠点を個性に変えるだけのパワーを持っていたのであって、(多分)減点法的にオーディションに残った松浦亜弥には、そうした、欠点をも愛しいと思わせる力が決定的に欠けている。マネジメントという視点から見れば、松浦亜弥の存在は、事務所のプッシュがなければあっという間に消えてしまう、投資効率的に見て面白味のないタレントでしかないだろう。
 このような松浦亜弥の存在こそが、UFAという事務所が、すでに守りの姿勢に入ったことを示す証左であると思う。

 
では、何故モーニング娘。は依然として人気タレントであり続けているのか?実は、これはモー娘。やUFAの力というよりも、むしろTVメディアというものが持っている構造的な特性、そしてTV業界の慣習が生み出したものだと僕は思っている。
 テレビ業界関係者と話すと、必ずと言っていいほど出てくる言葉がある。それは、「テレビ局が売ることのできる商品は24時間しかない」というものだ。本やCD、そしてインターネットビジネスでも、新作を出したければ並列的にどんどん出せばよいが、テレビはいわゆる「時間メディア」であり、逆立ちをしても1チャンネルあたり24時間以上のコンテンツをスポンサーに売ることはできない。従って、他のメディア以上に、時間あたりの利益率を追求しなければならないという宿命を背負っている。そのせいか、他のメディアと比べても余計に人気のある
コンテンツへの一極集中が起こりやすい構造があるように思う。民放各局が差別化をあまり重視せず、横並びで似たような番組構成なのも、こうした構造が背景があるのだと見られる。
 ところが、どんなに優れたコンテンツでも、反復して登場されたら誰でも飽きてくる。こうした視聴者の「馴れ」に対して、もっとも耐性を持っているのが、実は幼年世代である。一体にブームというものは何でもそうだが、反復して露出するようになると、人気は子供寄りにシフトしていくものだ。モー娘。が次第に子供寄りのマーケティングにシフトしているのは、こうした理由によるものだが、いずれ必ずその限界はやってくることは誰もが予想し得るところだろう。

 余談だが、少子化に伴い子供マーケットは益々縮小する運命にあるが、一つだけ幼年市場にメリットがあるとするならば、それがマスマーケティングに適していることだと思う。成人マーケットに比べ、幼年層は嗜好の多様化が進んでいないため、いったんブームになるとマーケットは一気に爆発する。昔から子供向け商材の多くが薄利多売の構造なのは、このこととも無関係ではあるまい。

 そしてもう一つ、モー娘。の伝統である「メンバーチェンジ」によって、かろうじて鮮度が保たれていることも、確かに大きいだろう。しかしここに来て、ワンマン経営者の典型ともいえる「拡張主義志向」という悪性のガンが、モー娘。を蝕もうとしている。13人というのは誰が見ても多すぎるが、今のモー娘。を見ていると、「誰を脱退させれば良いか」という、難しい決断へのリスクを恐れて、動きが取れなくなってきているように見える。UFAは、もともと「ジャニーズJr.」のように、モー娘。をアイドルの育成機関としたい意図があると言われているが、ジャニーズ事務所にあってUFAにないもの、それはブランディング戦略の欠如である。
 つまり、UFAという事務所は、「成功の因子」を内包している企業だとはいえないのだ。モー娘。の現在の成功は、今まで説明してきたように、ほとんどが外部からの要因、もしくは幸運によるものである。そこから時代のキーワードを読み取ることは可能かもしれないが、少なくともそこに学ぶべきマーケティング「戦略」があるとは思えない。ところが、前述した本のように、結果論で物事を見ると、これも「成功法則」とひと括りにされてしまう。だが、ここのところのニュアンスの違いこそが実はもっとも大切なのではないか。

 もしも、モー娘。メンバーの一部を「不良債権」と呼ぶならば、むしろ、あの有象無象の「ハロープロジェクト」こそが、本当の意味でUFAの不良債権であるはずだ。UFAは、ハロープロジェクトの「カントリー娘。」への強引な石川梨花のアタッチ、150cm以下がメンバー条件のミニモニに対して、「ココナッツ娘。」のミカを、身長152cmだったはずのプロフィールを無理やり150cmと変えさせての強引な参加、そして最近では、再デビューした市井沙耶香に元シャ乱Qのメンバーを組ませたり、挙句の果てには堀内孝雄に中澤裕子と矢口真里をデュエットさせるなど、かつてのファミコンブームもかくやと思わせるほどの、露骨な「抱き合わせ商法」を行っている。こうした方法論が、稼ぎ頭であるモー娘。のブランドバリューをいかに低下させているかは想像に難くない。
  何度もいうが、先の「モー娘。マーケ本」は、結果論でモー娘。を語ろうとするから、こんな誰でもわかる、「モー娘。マネジメントの迷走」という結論すら導き出すことができていない。モー娘。は、シンガーとしてははるか昔の2年前に、もはや完全にピークを過ぎ、その収益構造は、キャラクター商品やタイアップなどによるものにシフトしてきている。単に売上高の多寡でモー娘。ブームを捉えていたら、モノの流行における「起承転結」の、どのフェーズ(位相)に、現在のモー娘。が位置しているか、ということすら見失うだろう。
 つまり、モー娘。の賞味期限はそろそろ尽きようとしているわけだが、この事態を打開するには、今こそ、「一定の基準でメンバーを競わせ、最下位から3人は容赦なく引退させる」などのイベントを打って、増えすぎたメンバーをリストラすべきである。一時的に子供の支持は失うかもしれないが、モー娘。は、子供に飽きられないうちに、こうした「構造改革」をしなければ、いずれ必ず消える運命にある。もし僕ならば、お子様向けの「ミニモニ」のメンバーをモー娘。から脱退させ、独立したグループとして「幼年マーケットへのポートフォリオ(分散投資)」という形を取りつつ、残ったモー娘。のメンバーには、子供にはとても見せたくないような骨肉の争いをさせて、いま一度20代マーケットの掘り起こしを図るけどなぁ。
なにせ「アイドルの賞味期限は4年」というジンクスを、モー娘。はもうとっくに超えようとしているのだ。「脱アイドル」できずに、この期間以上を生き延びたアイドルは過去に存在していない。残された時間はそう長くないはずだ。

●結果論的には成功か?
 というわけで、僕がモー娘。から教訓とすべきこととは、「モー娘。の経済学」という本とはまるで正反対の結論となった。
 
これはモー娘。に限らないが、巷のジャーナリズム、評論家などのオピニオンを見ていると、いつも気になることがあった。それは、行為者から見て「もしオレならばどうするか?」という視座がまるで欠如していることである。要するに、結果を見て、そこからバックして逆算的に物事を語ろうとするから、往々にして事象の因果関係を見誤るのだ。

 最後に一つ付け加えると、前述した「モー娘。の経済学」は3月に出版されてのち、既に第3刷となっているので、多分そこそこ売れているのだろう。つまり、「結果論」でモノを見た場合、ここでこうした批判を行ったことも含め、著者の朝野氏は、狙い通りの成功を収めたことになるのかもしれない。
 あーなんだかなぁ、真面目に批判してる俺のほうが馬鹿馬鹿しくなちゃったよ。(笑)
(文中敬称略)

9月7日
あなたには「メル友」がいますか?
(「北の国から2002遺言」を見て)
またまた、随分久々のコラムとなってしまいました。
実はこの文章も、トップページの「TIPS」として書きはじめたつもりだったんですが、あまりにも長くなってしまいそうだったので、途中からコラム向けとすることにしました。


 あなたには、いわゆる「メル友」がいますか?
なかなか微妙ですが、ここで言うメル友の定義とは、「会ったことが一度もない友達」としときましょうか。

 僕には、そういう「メル友」が4名ほどいます。そのうち2名ぐらいは、もう6〜7年来の付き合いになります。
何せ、パソ通(旧ニフティサーブ)時代からのメル友ですから、ずいぶん長い付き合いです。
 現在、もうメールを交わしていない人を含めれば、こうした長期のメル友というのも過去に結構居まして、中には、最初にメールしたとき、相手はまだ中学生だったのが、今はもう大学生になって、慶応のSFCに通ってる人なんかもいるし、知り合った頃は高校生だったが、大学に入って卒業し、財務省に入省したのち結婚退職し、九州にお嫁に行った子なんかまでいます。
 
あ〜、こんな話するとまるで、自分が凄くじーさんになった気分ですなぁ。(^_^;
また、最初は
日本の大学で助教授やっていた海洋物理学者で、船上から衛星を使って、メールを交わしてる中年男性なんかもいました。(素晴らしく知的で、かつ、紳士的・文学的な方でした)

 前にもここのコラム(「ボイスチャットがチャットを変えた」)で書きましたが、定額常時接続のインターネットや、そしてケータイでのメル友が当たり前になった現在と違い、通信が従量課金で高額だった頃のパソコン通信は、コミュニケーションのレベルそのものも、まだ「デフレ」しておらず、こうした知的な人が多かった。
 もっとも近年は、あまり新しいメル友はできていません。多分それは、リアルで仲の良いGFがいるからだと思いますが、理由は自分でもよくわかりません。

 さて、そうした昔からのメル友の中に一人、現在30歳の女性がおります。
 もっとも最近では、メール交換も年に数回のペースです。ニフティのチャットで知り合ったのですが、 知り合ったのは確かもう7年も前で、会ったことはありませんし、顔も知りません。電話で話したことは何度かあります。大変に女性らしい、かつ聡明さを感じる方であります。
 この方、最初に話した頃はまだ独身で、某田町に本社のある電機メーカーで、取締役の秘書をしてたそうですが、今は結婚し、家庭に入っているそうです。旦那さんは、これまた有名な某外資系のSI勤務だそうで、最近郊外に家を買ったそうです。

 以前、この女性からひさびさに電話がきて、こんな話を聞かされました。
 どこかのコミュニティサイトで、40〜50代の男性と知り合い、メール交換していたのだが、(知り合ったのは、もしかしたらチャットか、もしかして出会い系だったのかもしれませんが、よく覚えてません)メール交換をしていくうち、徐々に男性のメールの内容がおかしくなってきたっていうんです。
 曰く、「好きだ」とか、「愛してる」とか、「今まで味わったことのない感情だ」などなど。それで、どうしても会いたい。メールだけでは嫌だと言い出したというわけです。
 それで、僕に電話して「メル友の態度がヘンだ。どうしよう」と相談してきたというわけです。

 旧ニフティでフォーラムスタッフをやっていたころから、僕はこういう相談は、本当にたくさん受けてきました。あまりにこういう話が多かったので、僕にしてみれば、もはや「あぁ、またですか。よくある話ですね」という感じなんです。今まで受けてきた類似の相談も、おそらく10件や20件ではきかないでしょう。
 そして、この中年男性がそうであるように、文字だけで熱くなってしまい、相手の気持ちも考えずに突っ走ってしまうのは、決して若者だけと限りません。実際の年齢には関係ないようです。

 こうした場合、僕の回答は決まっていまして、「以後、一切の返信をやめて関係を断ち切るか、さもなくばハッキリと、『メール以上の付き合いをするつもりはなく、そうした気持ちになっているのはあなただけだ』 と明言しなさい」と言います。そして、「たといあなたに非はなくても、あなたは逆恨みされるだろう。それは未熟な相手とコミュニケートしたあなたに非があるのだと思って、一切の弁明をしようとせず我慢しなさい。」と答えます。

 要するに相手は、(その年齢を問わず)文字だけでコミュニケートすることに対して慣れてない人なんです。
 メールの行間を読んで、相手の気持ちに対する想像を膨らませているんですね。…そして、恋に未熟なティーンエイジャーがそうであるように、その文字に現れない「行間」を、自分の都合の良いように解釈してしまうんです。
 だからこれは、ハッキリ「誤解だ」と言ってあげる以外ないんです。
 僕は過去に、こういう相手に対して、曖昧な対処をしていて、結果的にひどい事態に陥った例もたくさん見てきました。
 中には、さる既婚者女性が、若い、女性経験の少ない男の子に対して、思わせぶりな態度を「メールで」取り続けたため、相手がすっかり舞い上がってしまい、ついに旦那も子供もいる相手の家に乗り込んできて家族崩壊にまで至ったケースまで見ています。ハッキリした態度を取らないと、ここまでひどい事態になるという見本です。
 お恥ずかしい話ですが、
僕自身、26歳ぐらいでメールやチャットを初めて体験したころ、実社会でGFが居たにも関わらず、会ったこともない女性の方に熱を上げたりしたことがありました。 本当にお恥ずかしい限りですが、これも今では、「メール若気の至り」であったと思ってます。そして、そうした体験が、僕のライターデビュー作である、「裏パソコン通信の本」を企画させる動機になりました。
 だから、こういう人の気持ちというのはよくわかるんですよ。

 さて、今日のこのコラム、何が言いたいのかというとですね。
 実社会でのコミュニケーションに、スキル(習熟度みたいなもの)があるのと同様に、メールでのコミュニケーションにも、また同様に、スキルがあるということがいいたいんです。
 そのスキルっていうのは、最近よく本で出ているような、「相手を不愉快にさせないメール術」とか、「効率よく好感度の高いビジネスメールマナー」なんていうものではなく、もっと根本的なものです。
 もっともっと、ずっとメンタルなものなんです。
 この中年男性は、おそらく人生ではじめて、ビジネス以外の用途で女性とメールを交わすという体験をしたのだと思います。彼は実社会では妻子もおり、もしかしたら、不倫や浮気の一つもしたことがある男性なのかもしれません。彼は、リアルワールドで恋愛をしたことはあっても、メールという手段で、人と感情を交錯させるという経験がなかった。それで、まるで初めて恋をしたティーンエイジャーのような、未熟な感情が爆発してしまったのでしょう。
 未熟者の対人関係というのは、概してエゴイスティックなものになりがちです。相手の感情を推し量ることに慣れていないし、本来、恋愛でも友情でもそうですが、自分の感情だけではなくて、相手の感情と絡み合い、関係性を紡ぎ出していくのが恋愛であり、友情なわけです。しかし、彼のような未熟なコミュニケーションには、常に「相手」が不在です。相手の実像はそこになく、、ただ自らの感情を投影反射する「鏡」であって、自らの虚像と格闘しはじめてしまう。
 こうしたことには、僕の知る限り、年齢には「まったく」関係ありません。ただ一つ、メールやチャットによってコミュニケーションをはじめた年限密度だけに左右されるものです。実社会で豊かな経験を積んでいるはずの人が、メールコミュニケーションに耽溺してしまい、醜態をさらすのを僕は今までにあまりにもたくさん見てきてしまいました。

 ふと思い立ち、このコラムを書いたのは、昨日放映されていた「北の国から」を見たからです。
 時代を反映してか、今回の「北の国から」は、ケータイメールにハマっている若者の姿が、主人公たちと異なる価値観の持ち主として現れますが、倉本聰という作家は、本当に当代一の脚本家だなと思います。その実像を本当に正確に、なおかつ、感情のヒダまで含めて、正しくドラマの中で表現していたので、僕は本当に感心しました。これはきっと、それなりにちゃんと取材をした上で、脚本の執筆に活かしているのではないでしょうか。
 ただ一つ、これは仕方のないことなのですが、北の国からの脚本で、「メール=若者の象徴」としていることについては、実像は必ずしもそうではないだろうと思います。こと「ケータイ」ということについては事実かもしれませんが、むしろ近年は、今までパソコンに無縁だった年齢層の高い人びとが、否応なしにパソコンに触れるようになってきています。こういった人びとの多くは、別に「メール交換で好きな相手を見つけよう」なんて気持ちではなく、「PCを知らないとリストラされそうだから」とか「オークションでブランドものが安く買えそうだから」とか、他の理由でPCに触れた人々なのでしょう。
 しかし、こういった人びとは、人生経験は積んでいるかもしれませんが、決して「メール精神年齢」は高くありません。30代や40代、そして50代の人が、突如としてティーンエイジャーのような感情に陥ってしまい、唐突におかしなメールを書いてくる事例は、きっと水面下でたくさんあるのでしょう。
 そしてこれからは、こういう事例はますます増えるだろうと思っています。


 僕は、時折セミナーや講習などに招かれて、携帯ビジネスやITリテラシーなどについて話をすることがあるのですが、そうした話を訊いている相手に対しては常に、「まず自分がインターネットで遊んでください」と言っています。
 なぜなら、インターネットでもなんでも、ネットワークというのは一つの「社会」である以上、「ビジネスの場」としてだけ捉えていたら、絶対にその実像を正しく掴むことはできないからです。リアルワールドに、「会社」があり、「個人の家」があり、そして店舗や役所や病院、そして盛り場があるように、ネットワークにあるのは、法人サイトだけはありません。個人サイトがあり、ネットショップがあり、省庁のサイトがあり、悩みを相談できる場所があり、そしてアダルトサイトや匿名の掲示板(盛り場ですね)があります。こうした中で、「ネットワークの住人」となってはじめて、相対的に「ビジネスの場」としてのネットワークというものを、正確に捉えることができると思っています。

 極言すれば、こうした理解がないままに、セミナーなどで手っ取り早く『商売のコツ』を得ようとしても、最初からそれは不可能なことだと断言してしまってもいい。多くの30代後半の人々、そして40代、50代以上の人は、いわば「遅れてきたネットワーカー」であります。僕に言わせれば、ITリテラシーを磨いたり、CRMの実態を勉強したりするのも結構ですが、それと同時に、インターネットを介して「メル友」の一人でも作り、そこがデジタルな「ビジネスの場」などではなくて、もっとどろどろした人間の感情が渦巻く、きわめてメンタルな場であることを知らなくてはいけない。
 そして、是非「いいとしをして、会ったこともない相手に熱を上げて」醜態をさらしてみてください。
 こんなことを書かせてもらえる場はなかなかないので、僕は自分のサイトだけでこうしたことを書いていますが(笑)、結局はそれこそが、「ネットワークを知るための通過儀礼」となるでしょう。僕は、こうした体験のない人物が、インターネットについて語ったり、ネットビジネスについてウンチクを披露しているのを聞いても、正直、その言説を信じません。そこにはネットを生活の場とする者のリアリティがないからです。

 こういうことを、わからない人に説明するのはとても難しいことです。言ってみればこれは、釣りをまったく知らない人に対して、釣りの魅力を説明する難しさに似ています。
 だから結局は下記のように、冷たく言い放つしかないのですね。
 「休日にはインターネットのことは忘れて自分の趣味を楽しむ」というスタンスでは、ネットビジネスには勝てません。休日こそ嬉々としててパソコンに向かい、溜まっていたプライベートでのメールを書くことを楽しみ、あなたのお気に入りのサイトを巡回し、それから彼女とデートにでかけるなり、家族サービスをするなりするのがいいでしょう。と。

 『勝つ』とか『負ける』なんて言葉は、僕は大嫌いなんですどね、本当は。(笑)

 

 
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