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9月8日
ホントに単なる「近況報告」

 いやー、このホームペェジを見に来てくださっている数少ない皆さま。こんにちは。三田隆治です。(お辞儀)
 日頃は、このような放言しほうだいの偏屈オヤジのペェジを見に来てくださって、ホントありがとうございます。

 忙しい、ここんとこホントに忙しいです。
 1年前、経営に携わってたベンチャーが思わしくなくて、何かと停滞気味だった頃に比べると、今は自分でも信じられないぐらい、毎日が慌しい。僕は約1年前にリコンして、娘(先月末で遂に9才になりました)を元妻方に残し、自分は高円寺で一人暮らししておりますが、最近、ウィークデイはほとんど目白の事務所に寝泊りするような生活です。
 ま、自宅も事務所も、どちらに居てもあまり変わらないというのはあるんですけどねー。

 ここんとこ、やっている仕事がどれもこれも急展開してます。現在、某ドットコム企業の顧問をやらせてもらってますが、こちらも半年の契約更新を行い、サービスインに向けて、かなり実務レベルが増えてまいりました。
 それと同時に、某社と進めているJ-フォンの公式コンテンツサービスの企画と事業計画も、ようやく具体的なレベルになってきました。
 何かと守秘義務が多く、具体的にどのような仕事なのか、ここでディスクローズすることができないのが残念なのですが。

 あと、本当に遅くなっていて、ここでも陳謝したいのですが、(陳謝陳謝。m(_ _)m) 最近は、プロユースの建築CAD統合ソフトの、インターフェイス改善提案、などというシゴトもやらせてもらっています。
 コマンドアイコンのデザインを、最近の高解像度環境に合わせて大型化、多色化し、同時にもっとモダンなインタフェイスに改良するための「提案」を引き受けております。
 何しろ、巨大なCAD統合ソフトですので、総数にすると3000個にもなろうかというアイコンをリニューアルするという地道な作業です。『思いっきり突飛な意見を出してくれ』という、私にとってはありがたいお仕事をさせていただいております。とか言いながら、これが遅れてるんだよなぁ。(^_^;
 本当にすみません。>メーカーの担当者様。 まずは、建築CADソフトとは何なのか?ユーザーはどういう人を想定すればよいのか。など、かなり根本的なところからのシゴトでもあり、じっくりと(なるべく急いで)取り組むつもりなんで、もう少しだけお待ちください。
 本当に、忍耐強くお待ちいただいてありがとうございます。(陳謝陳謝) ただ、ホントに楽しんでおります。このシゴト。
 僕は、インターフェイス設計の仕事って大好きなんですよ。ゲームデザイナーだった頃も、インタフェイスにもっとも多く、作業時間を割いていたように思います。
 僕の中では、ソフトウェアのインターフェイスデザインの仕事というのは、まるで純文学小説のように、人間心理を突き詰めて考える作業であると思ってます。

 ライター業の方も、仕事の傍ら少しづつやらせてもらっております。TOPページにも書きましたように、日経BP社のサイトに、全四回のコラムを短期連載させていただくこととなりました。タイトルは「携帯電話は何を変えるか?−ビジネス・ライフスタイル大予測」(予定) 編集者の方の丁寧なお仕事にも助けられ、なんとか形になりそうです。
 決して持ち上げる訳ではないのですが、有能な編集者さんというのは、ライターにとってはプロデューサーのような存在です。原稿の主旨を的確に理解してくれ、そして、書いてる当人が陥りがちな堂堂巡りを、客観的な視点より見て的確な意見をくれるだけでなく、資料集めのような地道な作業も手伝ってくれる。僕は長いこと本業の方では、どちらかというと、クリエイターの面倒を見る方の立場でしたので、こうした立場で助けてくださる方と仕事ができることには、無条件に幸福感を感じてしまうんですよね。
 そして、原稿の内容もまた、僕にとっては最上級に楽しい仕事です。 僕は元来、「未来予測もの」が大好きなんです。子供の頃から、外挿法を用いたハードSFとかが好きでした。ラリィ・ニーブンの「リングワールド」なんか大好きでしたからね。小松左京の「日本沈没」も素晴らしい。あれはもはやSF(Science Fiction―科学小説)ではなく、SF(Speculative Fiction―思弁小説)です。何せ、ニッポンを沈めちゃうことで、『日本人とは何か、日本民族とは何か』について考察しようという、壮大な思考実験ですからね。おっと脱線脱線。
 そういう意味で、テクニカルライター主導の、ハードウェアの予測記事には読後に不満が残ることが多いんですよね。ほら、技術的なSeedsが書かれてて、それでおしまいっていう記事がほとんどでしょ。『ケータイで自販機のジュースが買えるようになる、凄い!』なんて、冗談じゃないっすよ。それって多分、預金を下ろすのに、通帳と印鑑が必要だったのが、キャッシュカードでおろせるようになった、ってことと変わんないでしょ。近い将来、ケータイが財布になっちゃうってことは、多分、そんな表面的な利便性だけでは済まない、もっと根本的な影響を世の中に与えると思ってます。そして、そうした変化は往々にして、気がついた頃には、もう終わってるものなんです。このコラムでは、遂に形成されるであろう「TV電話文化の誕生」とか、「ケータイ財布」がマクロ経済に与える影響まで、改めてぶっ飛ばしてみようと思ってます。
 各界の専門家はイヤな顔するかもしれないけどねー。(笑)

 あと、もう少しで遂に通産3000万ヒットを達成する、インターネットのカリスマ、『侍魂』の開設者、健さんのインタビュー&記事も来週以降に執筆予定です。もたもたしてる間に、「ぴあ」とか、他のメディアに先を越されちゃったけどね。
 でも、まだまだ、「侍魂」現象が象徴してるものって、十分理解されてないと思う。先行者が面白いとか、そういうネタは二の次だと思うよ。だから僕は、健さんインタビューは、ビジネスマンが読むちゃんとした雑誌でやりたかったの。『侍魂』のヒット数って、インパク全体を合わせたヒット数に匹敵するって知ってましたか?多くのドットコム企業とか、ブロードバンドコンテンツがどうのこうのって言ってる企業はさ、インターネットで本当に人々が求めてるものが何かっていうことを誤解してるって思うよ。個人的にもファンなので、健さんに遭えることは凄い楽しみにしてますよー。

 そして、そろそろ、次の単行本の企画をってことで、ちょっとライトなテイストですが、
「これで年間700万円節約! 
小さな会社の社長さんに贈る、『ITシャチョー』になるための超入門」

っていう本の企画を、今準備中です。
 前作でもご一緒させていただいた、敏腕フリー編集者の根村かやのさんと、またご一緒ということになりそうです。
 まだ出版社とか決まってないけど、決まったらお知らせしたいです。今までのパソコン入門とは全然違ってる、かなりぶっ飛んだモノになると思うよー。単なるパソコン指南だけじゃなくて、ITを駆使して銀座のクラブに通うより安く愛人を見つける方法まで指南しちゃうつもりだから。(笑)
 これがある程度うまくいったら、「デジタルディバイド解決シリーズ」(笑)っていうシリーズにしたいんだけどねー。この本。

 あと、一応ここ1年での集大成になる単行本企画の「携帯電話ストリートカルチャー」(仮称)の企画も細々と進めてます。コレは僕のライターの仕事の基点にしたいと思ってるので、頑張って早くカタチにしたい。どこか、企画書見てくれる出版社ない?頼むよーホント。(笑)

 その他色々あるんだけど、とりあえず近況報告でした。しかし、ココまで書いちゃっていいんかいな。

 あと、コチラのペェジですが、近々、色々な面で少しパワーアップしたものをお届けできると思います。それに先立って一応、サイトは「完全リンクフリー」に変更いたしました。

 今後とも、『ケミカルオォッシュ!-化学的洗浄』をよろしくお願いします。(お辞儀)


10月9日
自分のための事業計画書を書こうと思う。

 前回のコラムから1カ月ぶりです。すっかりご無沙汰してしまいました。
 とは言え、多忙な状況はあまり変わってないのですが。

まずは、某社のご担当者にお詫び
 今日、某社から電話があり、我が敬愛する会長さんより直接、『提案をまかせたあの仕事。どうなってるんや』と怒られてしまいました。そこの担当者の方が、このページを読んでくださっているのかどうか判らないですが、ホントにすみません。陳謝いたします。
 何せこの1カ月、日経BPコラムの仕事や他の案件など、頭の中は「ケータイで一杯」状態でした。昼夜も完全に逆転に近い状態で、日々ネットサーフィン&資料あさりの日々、おかげで、一ヶ月で5KG近くも太ってしまいました。この1カ月、携帯電話について、イヤになるほど考えましたよホント。でも、おかげで、ますますケータイが好きになりました。(笑)
 本当に、辛抱強くお付き合いいただき、どうもありがとうございます。今、急いで作業中です。今しばらくお待ちください。

久々に、自分が起業するための事業プランを作ろうと思う。
 そろそろ、自分自身の起業のための事業計画書を書こうと思っています。できれば、来年度早々には新しい会社を立ち上げたいと思ってるんです。もし立ち上げに成功すれば、これは僕にとって4社目の「起業」となります。成功した起業も、失敗した起業もありましたが、次回はとにかく理想的な形で起業したいと思っています。
 どのような計画なのか、明らかにすることは現時点ではできそうもないのですが、考慮したのは下記の仮説です。これだけで判ってくれる人がいたら嬉しいですね。(笑) 下記の仮説に基づいて、2〜3年後以降に活性化するサービスコンテンツの企画を、複数個以上立ち上げてしまおうというものです。

【仮説】
・ブロードバンド普及と携帯端末の高速化は、B2Cサービスだけでなく、
 C2Cサービスにおいても新たなキラーコンテンツが生まれる余地を沢山産み出すはず。

・10年後には、日本人の結婚の半数は「ネットでの出会い」によるものになるだろう
・日本発のドットコムビジネスは、ブラウザフォン(ケータイ)との連携により、
 まずは東アジアから徐々に国際化していくだろう
・Eコマースが物流業を活性化させるならば、ネットでの出会いは、
 旅行業を(今までと違う形で)活性化させるだろう。
人口ピラミッドは、様々な示唆を我々に与えてくれるということ。

 問題はやはり資金っすねー。美辞麗句を連ねて、「絶対当たりますよ」なんてセールストークで、テキトーにスポンサーを見つけて会社を作ることはできるかもしれない。しかし、事業計画についてキチンと把握していない投資家と付き合うことが、いかに後モメゴトを引き起こすかということについては、過去の事例で痛感しているので、決してそういうことはしたくない。
 かと言って、今回の僕のビジネスプランについては、VC(ベンチャーキャピタル)に対してちゃんとプレゼンテーションしていくのもなかなか難しいものがあります。どうやってこの事業を離陸させるか、まず、そこから考えなければなりません。
 ただ、VCがどういう基準で投資を決定するのかは詳しく知りませんが、少なくともちゃんとしたVCであれば、その事業プランが「オンリーワン」、あるいは「ナンバーワン」のどちらになるのか?というポイントを必ず問題にするはずです。
 前者の「オンリーワン」とは、つまり「ニッチ」です。競合者のない排他的な地位、あるいは大手の隙間をちゃんと狙えているかどうかということ、後者の「ナンバーワン」は、競合者が居てもトップシェアを取り、そして維持していける内容かどうかということです。

 多くのアイデアベースのドットコムビジネスというのは、実際のところ、このへんのところの根拠が薄弱なんですね。だから、最近、起業して、ちゃんと経営が成り立っているベンチャーは、(以前からもそうですが)大体、技術的なバックグラウンドを同時にしっかり持っています。しかし僕は技術屋ではないので、そのあたりの技術的優位性というものは、事業の中核競争力として据えることができません。
 
一時、流行りすぎた感もある『ビジネスモデル特許』という概念も多少は有効なのでしょうが、最近はどうなんでしょうかね。(笑) そもそも事実はどうあれ、私はビジネスモデル特許なんて、端っから信用してませんし。(笑) アイデアベースで競合者が出てくるならば、それ以上先を行くアイデアを常に出せばいいんだぐらいに思ってますから。
 
ま、VCの人から見たら、それは実証不能な事柄であり、幼稚な考えなんでしょうけど、(笑)

 というわけで、月内に「IPOを目指せる事業計画書」を作ろうと思ってるんですよ。半年後ぐらいに、まだこのスキームがスタートしてなかったら、まぁ、笑ってやってください。(笑) 
 と、同時に、この僕の突飛な仮説に基づく事業アイデアに出資を検討していただけそうな、素晴らしく奇特な方も是非、ご連絡ください。 まずは友達から始めましょう。本当に。


10月11日
リスクは、『ユビキタス』に

 最近、例のテロの影響で、ガスマスクや化学防護服までが売れているのだという。
 一体、どんな人が買っているのだろう?とても興味がある。僕は保険会社の人間でもなければリスク分析の専門家でもないので、厳密なリスク計算はできない。が、一般論で考えて、ワシントンD.C.やNYに住んでいる人間は、もしかしたら買った方が良いのかもしれない。東京都心部に地下鉄通勤している人間、これもひょっとして買った方が良いのかもしれない。もしもアメリカ大使館に勤務しているというなら、それもなおさらだろう。
 仮に今度、BC兵器(生物化学兵器)を使ったテロが、世界のどこかの土地で起こるとして、そこでWTCで死んだ人間の3倍、2万人が
死ぬと仮定しよう。今、テロの危険にさらされている潜在的人口が少なく見積もって5億人居るとして(これは、G8主要国の都市部、及び周辺部に住む人口の数倍にあたるはずだ)確率は5億分の2万ということになる。以前にもこのコラムで書いたが、この確率は、僕があと1年の間に、交通事故に遭遇して死ぬ確率に比べればずっと低い。ましてや、僕は都内をバイクで移動しているので、交通事故に遭って死ぬ確率は、おそらく平均値の数倍という高確率となるはずだ。
 ハイパービジネスマンな方ならご存知だと思うが、企業が監査法人をつけて上場プログラムに入った場合、社長がわざわざ金のかかる運転手付きハイヤーに乗る理由も、主として交通事故の加害者となるリスクをヘッジするためである。自動車を運転したが最後、我々は誰でも、意図せずして刑事犯罪を犯してしまうリスクをしょっている。刑事犯罪歴のある者は、決して上場企業の社長にはなれないのだ。
 つまり平たく言えば、我々は依然として、どんなに善良な人間でも、人殺しとなってしまう危険のある社会に生きている。それがモータリゼーションの裏の本質であり、そしてモータリゼーションが、この百何年かで人命と環境にもたらしたダメージもまた、計り知れないものがある。だというのに我々は自動車を否定することができない。それはあたかも、イスラム社会が依然としてコーランを否定する気などさらさらないことと、どこか似ているような気がする。
 僕が10歳にもならない子供のころは、夕方のニュース番組では毎日、交通事故死者の数と、それが前年比で増えたとか減ったとか、(まるで株価の上下を報じるように)ニュースキャスターがレポートしていた。一体いつから『交通戦争』という言葉が死語になってしまったのか、僕もさだかには覚えていた。また、MS−DOSが本格的に普及を始めた15年ほど前には、まだ日本の一部で、「OSが外国製品に独占されることは、国家の安全保障を脅かす」と警鐘を鳴らしていた人びとがいた。(TRONプロジェクトを覚えている方も多いだろう。もっとも、コチラの問題は、経済のグローバル化によって、企業の、国家への帰属意識がますます希薄になってきたことによって、あまり問題とされなくなったという点もあろうが、)しかし、これらのリスクは、決して今でもなくなったわけではない。それらの問題について、当時あれほど騒いでいたひとびとは、どこに消えてしまったのだろう?
 きっと、もう騒ぐことに飽きてしまったのだろう。

 数年前の、O−157騒動、そして現在の狂牛病騒動、そしてテロ騒ぎ、現れては消えるこれらの騒動を見ていると、それらのもたらすリスクよりも、むしろ、それ以前からあったリスク、最近はやりの言葉で言えば、『ユビキタス』な、つまり、『空気のようにそこここに存在する』リスクというものに対して、僕達がいかに無頓着ということを痛感してしまう。何かの委員会の答弁で、例の塩爺こと塩川財務大臣が、「交通事故だって年間9千何人死んでるのに、補給に赴く自衛隊員のリスクなど言ってもしょうがない」というような、一見放言とも取れる発言をしていたが、個人的にはかなり共感を覚える。リスクとは、狂牛病やテロリズムによってはじめて現れるわけではなく、最初からもっとユビキタスに、あまねくどこにでも存在している。

 なぜ僕らは、少なくとも日本では死人などロクに出ていない大腸菌の変種や狂牛病にすら騒ぐのだろう。それは、おそらく新しい種類の恐怖だからということもあるだろう。ホラー映画のエスカレートぶりを見ればわかるように、恐怖とは耐性を持った感情であり、人間はユビキタスな恐怖ならば、いずれは慣れることができるという便利な性癖を持っている。
 そして、もう一つ大事なことは、狂牛病やテロは、我々に何らの快感をももたらさない、というのもあるだろう。僕がバイクを止めないのは、死ぬリスクよりもバイクによって得られる利便性や快楽を取っているわけだが、あの美味い和牛が食えなくなることは不快感しかもたらさない。だから僕達はいま、値下がりした和牛をこれ幸いと買い、大いに食らうべきかもしれぬ。それで死ぬ確率は、多分あなたが、明日自動車に轢かれて死ぬ確率よりも遥かに低い。
 もちろんマスコミの責任もある。マスコミは受け手があってこそ成立する「産業」である以上、付和雷同的な性質があるのは、もはや構造的な宿命と言うほかない。たとえば、AIDS問題ひとつをとっても、もはや日本にはエイズ感染のリスクなど全く存在しないかのようである。 こうなると、まはや不可知論の領域にまで入っていきそうな話ではある。
 結局、僕らはマスコミや世間が何を言おうが、やはりここで、「いまここにある自分のリスク」とは何なのか、自らの頭で考えなければならないのだろう。もしかして、僕たちが気付いていない、あるいはただ忘れているだけの、『ユビキタスなリスク』が、空気のように、そこかしこに存在しているのかもしれない。


10月13日
ちょっと古ネタ「ロイヤルホスト、幻の手描きメニュー」
10月14日正誤:
スミマセン。どうやら、まだこのメニューが使われてるようです。先日店のおねーちゃんに訊いたところでは、「評判が悪いので10月上旬で変えます」ってことらしいかったのですが。
というわけで、まだ見てない人は、ロイヤルホストに走れ!
でも、ロイヤルホストって久々に行ったら美味しかったよ。さすがファミレス界のステイタス王。

さらに続報(10月22日):
結局、予定より少し遅れたものの、10月15日あたりに、メニューはイラスト版から写真版に戻ったらしいです。
しかし、このメニューのおかげで、この一ヶ月で3度もロイヤルホストに行ってしまった。
少なくとも僕にとっては、ロイヤルホストは十分に集客効果があったってことかー。

 今回は珍しく、ビジュアルなネタ中心です。ホントはもっと早くアップするつもりだったんだけどねぇ。

 ファミレス「Royal Host」で、9月の中旬から今月上旬までの間、わずか3週間ほどで消えた、「幻のメニュー」があったことをご存知でしたか?
 一部でかなり話題になっていた、すべての料理がイラストで手描きされたこのメニュー、あまりに不評なため、わずか三週間で、元の写真の料理メニューに戻ったようです。
 先日も、光文社のDIAS編集部に行ったとき、編集担当者に「もうロイヤルホスト行きましたか?」と尋ねると、「あぁ!はいはい。あれ、ヒドイっすねぇ」と、妙な盛り上がりを見せていました。(光文社は、歩いて1分の至近距離にロイヤルホスト護国寺店があります)

 『あまりに絵がヘタクソで、全てのメニューが不味く見える』、『客が怒って帰った』、『ウエイター(ウエイトレス)が、メニューを出すとき謝る』、『売上が減少した』、などなど、一部で都市伝説さえ生んだ(らしい)、この手描きメニュー。普段ファミレスにあまり行かない私も、デジカメをわざわざ持参して、つい、撮影してきてしまいました。

まずは肉料理のページです。ステーキとポークソテー、ビーフシチューが全部同じに見えます。このイラストで注文をするのは確かにかなり困難です。しかも、画面左下の『白玉あんみつ』まで、丁寧にも、肉と同じ色です。(>コチラ

次はデザートのページです。「ダブル・エスプレッソ」と「カフェ・ラッテ」が同じです。文字を見て、かろうじて二種類のメニューが違うことがわかります。「ぜんざい」は、心太(ところてん)だといわれても納得してしまいそうです。(>コチラ

 では、最後に極めつけの一発は、裏表紙に載っていた極めつけのお勧めメニューの、「ホット・ファッジ・サンデー」です。しかし、ロイヤルホストに行ったのは結構久しぶりでしたが、注文したステーキ丼は、結構かなり、美味だったことは付け加えておきます。
ロイヤルホスト万歳!


不味そう。


10月22日
「カッコ悪さ」の時代
10月23日正誤:
スミマセン。N経BP社K田氏(伏字にする気あるんかい)より、メールにてご指摘をいただき訂正します。
「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」は、早川義夫でした。(1969年リリース)
これからは、ちゃんと調べて書こう。反省。

 リクルートの老舗アルバイト雑誌、「FROM A」がリニューアルした。
 僕自身も大学時代にはお世話になっていたこのアルバイト情報誌、紙面はさすがに見ていないのだが(笑)、TVCMについては今日までに3バージョンを見た。自分の部屋で踊っている女の子、スタジオでカメラをかまえている女の子。そして、駒沢公園のような屋外でベースを弾いている男の子、の都合3バージョンである。そして、どのバージョンの男女も、実にカッコ悪いのが印象的である。
 最初の女の子は、踊りが不恰好な上にどこか自己陶酔的だ。ウエストにくびれがない女の子までがヒップハングのパンツをはく、この「流行」というものの残酷さは常々感じていたところだが、この女の子のローライズジーンズ姿もやはり不恰好である。二人目の女の子は、どう見てもフォトグラファーとして大成しそうには見えないチャラチャラしたカッコで写真を撮っているし、3人目のベーシスト少年は、いかにも手つきがたどたどしい。(余談だが、ギターやベースというのは、音を聴かなくても奏者の手つきを見るだけで、どんな音を出すか大体見当がつく。このCM少年の手つきを見た瞬間、僕が想像したのは、「スーパーカー」みたいな非力UK系ギターポップの音だった。あなた、どう感じましたか?)
 
いずれにせよ、これらのCMから共通して感じ取ることができるのは、その非凡なまでに演出されたリアリティである。リクルートという会社は実に頭の良い会社だと感心すらしてしまう。彼らは、対象とする読者、つまりフリーター層からシンパシーを得るにはどうしたら良いのか、十分に判っているのだろう。
 いかにもオヤジ臭いので、ここから先は本当は言いたくないのだが(^_^;、このCMの、3者から浮かび上がってくるフリーター像とは、つまり「大人との係わり合いを拒否する姿勢」、そして「カッコ悪さの積極的な肯定」なのではないかと思う。

 僕が大学生の頃、「Hot Dog Press」に渡辺和博が書いていたコラムを、今でも思い出すことがある。
 「デートで、女の子をオトそうとしても(「ゲットする」なんてスラングは、当時はまだなかった)、一生懸命バイトしても僕らの予算は大3枚がせいぜい。しかし、オヤジは大5枚はいっちゃう。しかもベンツかBMWの送迎付きで料理にドンペリまで付いちゃう。簡単には勝てっこない」などという文面を読み、貧乏学生だった僕は、「ちっ。大3枚どころか俺なんか大1枚だってキツいよ」と、ガックリ来ていたものだった。そんなことを書いていた渡辺画伯も、そしてそれを間に受けていた僕も、なんと無邪気な奴だったのだろう。
 だが、80年代中盤の、バブル前夜のニッポンとはそういう時代だった。皆浮かれていたし、誰もが「いずれ俺だってオイシイ思いをしてやる」と考えていた。

 そう考えると、今のフリーター世代を、「ミーイズムの蔓延」とか、「時代との係わり合いが希薄」だと言って非難するのも酷な気がする。70年代初頭、よしだたくろうは、「カッコいいって、なんてカッコ悪いんだろう」と喝破し、大人の作った社会に背を向けてみせた。その次の時代に青春を過ごした僕らは、大人の作った価値観をそのままに受け入れ、若いことも貧しいことも、それらは等しく恥ずべきことだった。
 そして今、右肩上りの時代は終わり、若いフリーターたちは、ふたたび大人の価値観に背を向けている。だが、背を向けた彼らはどこに向かって歩き出すわけでもない。ただ、その場にじっとうずくまっているように見える。きっとその場所は、意外に暖かい処なのだろう。
 だが、いずれにせよハッキリしていることがある。この右肩下がりの時代、彼らフリーターの大半が恐らく、(8割とかその位の比率で)自分たちの両親よりも貧しくなる運命から逃れることができないということだ。
 80年代、ビリージョエルが、ペンシルベニアの鉄鋼労働者について唄った「Alen Town」という曲にこんな歌詞があった。

「卒業証書は壁に飾ってあるけど、何の役にも立ちはしない。教師の言葉はウソばかりさ。『努力すれば報われる』なんて」/「全てが上手く行くはずだった。父親たちのようになれるはずだった。だが何かが変わってしまい、アメリカは僕らを捨てた」 /「生活はだんだんとキツくなっていく。でも、僕らはまだこの街に住んでいる」

 こんな歌詞は、この日本でもいよいよ現実のものになろうとしている。
 …というより、もうすでに、そうなっているのかもしれない。

 しかし、我ながら歯切れの悪い文章だなぁ。(苦笑)オヤジというのはいつの時代でも若い世代に不満があるもので、一見物分り良さそうに振る舞っていても、実はもう、言いたいこと満載なのだ。だが、若い世代がどうとかいう以前に、まず僕らの世代は、そろそろ僕ら自身の、世代なりの振舞いかたを決めなければならないのかもしれない。


10月28日
特別寄稿:『ご感想メール』より
 ―「サロン・ド・高円寺(www.koenji.net)」主宰 若林ヨウジロウ

(三田談)):いやー、前回のコラム「カッコ悪さの時代」なんだけど、世代論ってどうも自信ないんだよね。実はかなり公開を迷った上にアップしたんだけど、それが意外に反応が多くって驚いてます。やっぱり世代論って、ネタ的に盛り上がるのね。
 中でも、我がご近所さんでもある、「サロン・ド・高円寺」主宰のヨウジロウ氏から、かなりまとまったご感想いただいたりしたので、本人のご了解を得て、ここに掲載いたします。Thanx!>若林氏

 先日の三田氏のコラムの一文、『誰もが「いずれ俺だってオイシイ思いをしてやる」と考えていた』 …いたね。フツウの人でもそう思ってたんだから、オレとか三田氏なんかの[流行をつくる商売](平成13年の現在、これほどかっこ悪い商売はない。(笑))の人間なんて、特にそう思ってたハズ。
 こういう種族はさ、とにかくそれが商売に結びつこうがつくまいが、空気感読み取るのだけはウマいのよ。早いのよ。でしょ?ただ、フツウのバブル謳歌型と違うのは、そんなトキでも常に[裏側]を忘れなかった。というか、忘れられなかった。この場合の[裏側]って、つまり当時で言う[サブカルチャー]。マガジンハウスに対する宝島であり、MCハマーに対するホンモンのヒップホップ。すげえ例えだな(笑)。 さらにもっとわかりやすく言うと、青山のイタメシ屋に対する高円寺のラーメン屋とかさ。
 むちゃくちゃ奥深いコト言うと、例えばフィギュア。15年前にフィギュアなんて部屋に飾ってあったら、事件じゃん?折しも宮崎某の事件のトキだしさ。フィギュアといえば、宅八郎でお馴染み[森高フィギュア]じゃん。それがどーよ?当時、まさか会社の机の上にチョコエッグの爬虫類置くようになるって誰が予想した?しかも女子がだよ!例えば当時、ローンで買ったゴルフのダッシュボードの上にそんな[人形]置いてたら、アウトだったワケじゃん。で、オレ(だけじゃないハズ)、アメコミのフィギュアとか純粋に[キレイだなあ。デザイン美しいなあ。]と感じてた、そんな人種だっていた。イタリア製のダブルスーツ着て服装チェックパスして、帰宅するとフィギュア置いてある図。それって、強いよ。やっぱ。

 だからオレら、モテてたよね?(笑)。フツウのバブル型人間は(例えば当時一番人気の証券マンとかさ)、[表面]しか知らないから。女子は飽きるよね。それが発展して、あの[アッシーメッシー]になるんだもんなあ。三田氏もたぶん、[バブルで遊ぶ]ことを知ってた奴だったのだろうと思う。この場合の遊ぶ、という意味は[バブルという文化を自分の中のフィルターに濾す]。バブルが破裂すれば、また違う遊びを覚えるだけ。金がなかった分、当時はそっちのテクニックで補ってたのかもね。(笑)

 で、話題はいきなり離婚。そんなこんなで今年あたりの離婚率もすごいと思う。理由は簡単。バブル。どうしたって、今年あたり30代半ばくらいから40代の人々の頭の中に[バブルな価値観]が残っちゃってるんです。
 オレや三田氏はさ、時代と寝る男(爆笑だな)だから、すぐシフトできるじゃん?価値観のシフト時もむちゃくちゃ早めに理解できるでしょ?でもこんな奴じゃない、当時フツウにバブってた奴らは無理だよ。茶パツにロックにパンク復活に牛丼280円行列にユニクロに失業率5%にチョコエッグの爬虫類に、ケミカルウオッシュ復活だよ。(笑)
 そんな[気持ちイイモンは気持ちイイ]ブームからして心から楽しめないんだよ。いまだに精神バブってる方々は。ちょいと視点や価値観を変えるとまたとてつもない世界が変わる、なんてコトはぜんぜん理解も予想もできない。んで、そういう価値観や感覚変更って女性のホウが早いし、敏感だから。旦那はいまだに田園調布に一軒家でしょ?(バブル青春期の女性=奥様のホウにもいまだ残ってるけどネ。そこは女性のフットワークの軽さでなんとかすり抜けてる人も多いけど)奥様のホウは、すでに皮膚感覚的に[田園調布に一軒家の家建てられない]コトはわかってる。
 そこで周りを見回してみると、子供の隣には学生の時からのファッション感覚が止まっている旦那。(ポロシャツの襟立て not 最近の80'sブームのそれ)ゴルフと野球(この2つも視聴率低下&ショップの売り上げ激減でヤバいらしいじゃん)。要は、バブル的恩恵はもうあり得ない。あり得ないのに、バブル的価値観で生きているアホな旦那がいたらそりゃもうヤだよね。オレだってヤだよ。(笑)

 で、三田氏言うところの最近のヤング論理に繋がるわけさ。でねえ…オレ、ココが言いたいんだけどさ、[大人を避けてる若者]はむちゃくちゃアリじゃん。この場合の大人は、前出のバブル価値観組ネ。で、その大人を避けてるってコトは逆に言うと、[これから新しい時代創る]ってコトでしょ?三田氏はそこで[何かフリーズしている]みたいなコト書いてたけど、その通りだね。でもさ、逆にそれもできない子供も異様にいるワケよ。大人を否定しきれない子供。でそこでその子供たちはコンフリクト起こすんじゃないかなあ。運悪くコンフリクト起こしちゃう子供が、今の事件になっちゃう。

 ここで三田氏の以前のコラムで鋭い指摘があって、大人もヤバイみたいなコト書いてたでしょ?あの大人がまさにバブル価値観組大人その種族なんではないの?
 『僕ら自身の、世代なりの身の振り方』…いやあ、ココにシメを持ってきたからこそ、オレ、これ書いてんのさ。これはさ、オレとか三田氏は個人的には既に必要以上に自分イズムで振ってるワケでしょ?(失礼)
 で、あとはオレら(30代後半)でまだ[ファイトクラブ]スピリッツが残ってるヤツらがどれくらいいるか…ってコトと、じゃあどーすんべえ?ということ。さらに、今、一番みていてある意味イラツク世代の30代前半に、オレらがどうやってコミットしてくか?悪すぎるオレら30代後半が上司で旧世代、下にはフロム・エーのCM世代…サンドウイッチ30代前半が一番可哀想っちゃあ、可哀想だよね。迷いが凄いモン…。

 で、オレは[対案を用意した](笑)。オレら宮崎某と同い歳、そして新人類はオレらで始まったワケだから、最後まで責任とろーぜ!ってなグアイなのさ。オレらが[創造をする]コトを身をもって示せば、必然的に迷いがあった30代前半は「な〜んだ。アリなんだ。」だし、10代後半や20代前半は少なくともフリーズから解放されて、再起動できる。
 てなグアいで、最後はどこぞの自己啓発?とも思える浅はかさでしたが、そーいうモンだと思うぞ。マジで。

 最後に30代中ば〜後半が、[今後の身の振り方]を考えるのに最適な作品を3つ紹介。漫画[20世紀少年]浦沢直樹・著、映画[クレヨンしんちゃん・嵐をよぶモーレツ!大人帝国の逆襲](11/25からレンタル開始)、 そして映画[ファイトクラブ]。この3本を必ず体験して欲しいッス。ヤバいッスよ。

 サロン・ド・高円寺 426 


10月29日
「話題の医学」(TV東京系)を観て思うこと

 先日更新した「お勧めリンク」のコーナーでも紹介したが、隠れた長寿番組話題の医学が実に面白い。
 万有製薬が提供し、医師のための情報番組として放映しているこの「話題の医学」、何年続いているのか知らないが、僕が大学生の頃には放映されていたから、もう軽く15年以上は続いているのだろう。日曜の早朝5時からわずか15分の番組だからつい見落としてしまいがちだが、これだけ密度の高い15分番組もなかなかないのではないかと思う。
 何が面白いと言って、まず地上波TVの中で、この「話題の医学」ほどスプラッター度が高い番組は他に存在しない。
 昨日(10月28日)の番組テーマは、「頸椎症性脊髄症のスキップラミネクトミー」(医師でなければ到底理解できない、このタイトルテロップが出た瞬間、「話題の医学マニア」はもうたまらない。「うはー、さっぱりわかんねー!(笑)」と、半ばコーフン気味に見入ってしまう。)
 昨日は、新しく開発された最先端の頚椎手術についての解説だったのだが、人体の首の後ろを切開して、頚椎を切り開き、中を手術している光景が克明に映像で解説されていた。大体、人間の首の後ろが切り開かれ、頚椎ごしに気道が見えている光景など、医者でもなければ滅多に見られるものではない。不謹慎で申し訳ないが、映画「ハンニバル」の頭蓋骨切開シーンもそこのけの、スプラッタ度満点の映像である。
そのほかにも、「乳がんの傷の残りにくい切除法」「事故で破裂した脾臓の再建」「脳腫瘍のレーザーメスによる切除」「内視鏡を用いた子宮筋腫の切除摘出」などなど、もう見るも恐ろしいグチョグチョ、血まみれ映像のオンパレードである。
 上記は不謹慎な発言なのかもしれない。もし不快に感じられた方がいらっしゃったらお詫びしたい。ただ、仏教の法話ではないが、こうした画像を見ると改めて、精神を包む肉体というものが本当に、「単なる肉袋」に過ぎないことを痛感する。そしてありきたりな感想だが、その「肉袋」が実に精巧に出来ていることにも、やはり驚異を覚えずにはいられない。

 以前までは、この『話題の医学』の魅力とは、上記のようなスプラッター感、そして、意味のわからない医学専門用語が羅列されるのを我慢して見つづけることで得られる、独特の「トランス感」(笑)だと思っていた。 だが近年、この「話題の医学」を見ると、また別の感慨をいくつか感じるようになった。
 ひとつは、毎回登場する医学者たちの、真摯かつ知的な態度である。毎回、ジャンルごとの権威の先生が登場して解説するのだが、医学と無縁の場所にいる僕たちは往々にして、病院理事長とか大学病院教授などという肩書きを見ると、(2時間サスペンスドラマの影響か)つい、「権力闘争」とか「医療ミス」という言葉を安易に頭に浮かべてしまう。(笑)
 だが、この番組を見ると、医学がいかに日進月歩で進歩しているか、そして学者たちの、冷徹なデータ主義によって患者の命と健康に奉仕しようとするその姿勢、そして登場する多くの医学者が高齢であるにも関わらず、新しい技術や理論にチャレンジしている柔軟性に改めて驚かされる。先日の『話題の医学』では、恐らく70歳を越えると思われる医学者が、自らの研究室のデスクに座って解説をしていたが、そのデスクに置かれていたのは、AppleのG4キューブに最新型の大型液晶ディスプレイであった。
 翻って世間を見ると、威張っている割に、頭はすっかり甘やかされて老化してしまったような零細企業のシャチョーさんなどがいて、彼らの多くがまだ50歳台前後だというのに、メールすら自分で打てなかったりする。いかに頭を使うのが商売の研究者とはいえ、この違いは一体どこから来るのだろう。
 そして、まだ37歳だというのに、「最近思考力の低下がねぇ」などとグチをこぼしている僕自身も、この番組を見るたび、反省することしきりなのである。

 そして、最近もうひとつ、この番組を見るたび、よく思うことがある。
 「どうしてこうした情報が、医者だけのために提供されているのか?」ということだ。
 『話題の医学』を見ていると、時折慄然とすることがある。たとえば、「○○病の新しい治療法」という解説で、「古い治療法だと、5年後の生存率3割だが、新しいそれなら生存率7割」などと、実に淡々と述べられる、その恐ろしさである。
 実際、昨日(10月28日)の頚椎手術のトピックでも、新しい術式と古い術式では、完治する率は7割とほとんど変わりないものの、術後に首の運動障害が出る確率は古い術式では8割だったのが、新しい方式では2割以下だという。「もし自分が、この手術を必要とする側の人間だったら?」と考えると、この方式を導入している病院と、そうでない病院にかかるのでは、以後の人生で天地ほどの差があるに決まっている。
 僕の父親は、3年前にガンで他界したが、一度大腸ガンの手術をして全快後、3年後に転移が発見され、その後1年と少しで鬼籍に入ることとなった。その残された1年の間、彼は口コミや本、医者の勧めなどに応じて、さまざまな病院や民間療法まで(正直言って僕の目から見れば、少し怪しげと映るような療法すら)、あれこれと接触して情報を取ろうとしていた。大東亜戦争に参戦し、若い頃は土建屋の若社長で屈強を誇った父が、わらにもすがるように療法を探しつづけた姿は、僕には痛ましいものだった。

 「話題の医学」が恐ろしいのは、ひとつの疾病ですら、最先端の療法とそうでない療法の間に、時として天と地ほどの違いがあること、そしてそれが冷徹なデータとしてして僕たちに突きつけられてしまうことである。そして我々患者の立場になる一般人は、いざ自分が病気になったら、こうしたデータを比較することで自らのリスクを客観的に判断するすべを、実はほとんど持っていないことに改めて気付く。たとえばもし僕が頚椎の病気になって、昨日放映された手術を受けるとして、2種類ある術式のどちらを受けても完治率は7割だが、術後に首の運動に障害が残る確率は実に3倍近く違うのである。
 僕が病気になったとき、こうした情報は本当にちゃんと手に入るのだろうか?そして、多少高い金を払おうが、完治率の高い医療を選択できるような体制は本当に整っているのだろうか?

 よく、IT革命など幻影であるとか、ITソリューションは経済を活性化しないという議論がある。「とんでもない」と僕は思う。現在、産業構造の変化によって衰退したり不況に陥っている産業はとても多い。だが、この世の中に新しい産業やサービスへの欲求がない、などというのは、イマジネーションの欠如した人間のたわごとに過ぎぬと僕は思う。
 僕たちが本当に知らないこと、知らなければならないことは、本当はまだとてつもなく多い。そして、それらを適切に、安価にスピーディに、そして利用者本位で教えてくれるサービスは、まだまだこの世の中に全然足らない。要するにただ、それらを下支えするビジネスモデルが存在していないだけなのだ。
 そうした、現在の産業構造では存立しにくいような、新しいビジネスモデル(今のところ僕は、自分だけのキーワードとして、こうした概念を「脱ビジネスモデル的ビジネス」と呼んでいる)こそが今求められていると思う。「話題の医学」を見ると、僕たちが本当に必要な情報とは何かということについて、改めて考えされられる。

 

 
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