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ネット&ケータイコミュニケーション 経済・起業・ベンチャー 社会・ライフスタイル 流行・話題 プライベート

8月4日その壱
出会い系サイトを肯定する。(その2)

 さて、少し時間が空いてしまいましたが、前回のツヅキです。

 …前回「その1」で、10年後には日本人の半数がネット婚になるだろうと書いた。
これは、もちろん、皆が今あるような出会い系サイトで知り合って結婚するという意味ではなく、男女が出会って、結婚にいたるキッカケとなる場所―従来は学校や職場、地域だったもの―の多くが、今後はネット上のさまざまなコミュニティに置き換わってくるだろうということです。
 こんな但し書きも、ココで書くといかにも「いまさら判ってるよ」という印象だが、実際、先日も博報堂に行ってこの話をしたところ、見事に『出会い系がものすごい勢いで増えるだろう』という指摘だと混同されてしまったようだった。

 もう大昔、―それこそ10年前から― 気になっているコトなのだが、この「ネット婚」や「出会い」について語るとき、多くの人々の顔に浮かぶ、あの下卑た表情は一体なんなのだろう。おそらく、それだけ多くの人が、「ネットでの出会い」というニュアンスに対して、いまだに胡散臭い、後ろ暗いモノであるという先入観を持ちつづけているのだろう。
 確かに、ネットでの出会いは、もう千万回も言われてきた、『匿名性』や『姿が見えない』などという特性によって、後ろ暗い人間関係を構築するために多く活用されてきたという側面がある。
 僭越ながら言わせてもらうと、そういった風潮を助長する上で、僕自身、僅かながら影響を与えてしまった部分もあるかもしれない。7年前に僕が、『裏パソコン通信の本(三才ブックス刊)』を企画したときも、主としてそうしたアンダーグランドな面から、ネットの持つパワーについて書いてみた。
 誰も誉めてくれないので自分で誉めますが(笑)、当時、そうした、「人間の秘められた欲求を開放する装置としてのネットワーク」という概念を本にした人は、まだ誰も居なかった。そのころ既に、ニフティには100万人もの会員がいたにも関わらずである。実際、他の主要な商用パソコン通信ネットを含めれば、もう数百万人がネットワークを活用し、その中の何割かが、実際にこうしたネットの「暗黒面」とも言える特性を十分理解していたにも関わらず、当時、「ネットというものは実は胡散臭いモノなのだ」という事実は、まだ広く認識されていなかった。実際、当時のネット上での「裏パソコン通信の本」に対する書評を見てもらうと、そうした認識が、そのころはまだ、いかに暗黙知に属する事項だったのか、よく判る。
 「Spa!」などのマスメディアが、こうしたネットの暗い面を盛んに記事にするようになるのは、それからさらに半年か1年以上経ってからのことだった。

 当時、ニフティのCB(チャット)で、「あなたの本を読んでニフティに入会しました」と話し掛けてくれる方が結構いた。それはそれで本当に光栄なことだったのだが、しかし、そこから7年が経過して、21世紀になったいま、おそらく「ネットでの出会い」の持つ意味は、もはや、そうした側面から考えるべきではないと思う。
 21世紀になったいま、出会い系の持つパワーというのは、むしろ、情報リテラシーならぬ「情緒リテラシーの飛躍的な向上」であると捉えるべきなのではないか。
 もはや、ネットでの出会いがオルタナティブだった時代は終わろうとしているのだ。

 閑話休題。最近、AMAZON.CO.JPのようなオンライン書店をよく活用している。書籍やCDをネットで買うことの意義というのは、楽天でブランドものを買ったり、ヤフーオークションを活用したりというコトとは、またまったく異なる意義をもっている。遅ればせながら最近になってやっとそのことに気がついた次第だ。まったくもってウカツだった。
 たとえば、気になる本があった場合、その作者の他の著作も検索し、年代順や売上順にソートして一覧することができる。さほど有名でない書き手の作品でも、ある程度まで著作の傾向や、『代表作は何か』『書き手としてのピークはいつだったのか』などを類推することができる。
 キーワード検索によって、類似の本をリストアップすることもできる。それを更に売上順にソートすると、特定のテーマにおいて人気が高いのはどういう傾向かなどまである程度わかる。
 こうした事実に気がついてから、僕にとって従来の「街の本屋さん」は、本を買う場所として完全に「主」から「従」の地位に転落してしまった。今や僕にとって街の書店というのは「自分が独りよがりにならないために、興味のない本も目に飛び込んでくる機会を提供してくれる場所」として存在しているに過ぎない。

 男女の出会いについても、これからは、これと同じようなことになるのではないかと思うのだ。
 そして、それがどういった影響をもたらすかなどについては、また項を改めて考察してみようと思う。
 一体どこまで続くんだこれ。(笑)

 


8月4日その弐
出会い系サイトを肯定する。(その3)

 たとえば、かの人気コミュニティサイト『ご近所さんを探せ!』では、自分を表現するキーワードを最大12個まで登録し、キーワードの合致率の高い相手を探してくれるような機能がある。
 もしも、12個のキーワード全部が合致する相手が現れたらどう思うだろうか? おそらく『街で遭った瞬間にビビっときた』とか『同じ職場で仕事しているうちに、なんとなくフィーリングが合って』というような感覚とはまた違った、確率論的な運命を感じるのではないか。
 おそらく、そうした相手を見つけた瞬間に感じる感動というのは、今世の中にある、どの恋愛感情とも違った、別の種類の感情となることだろう。そして、ネットでの出会いというものが普及すると、好むと好まざるを問わず、こうした「合致率100%」の相手を目指すベクトルに向かって進んでいくのだと思う。

 いずれにせよ、これからは必然的に、「より多い母数の中から、自分の理想像に近い相手を探し出すことができる」ことがとなり、「独りよがりにならないために、色々な人を一覧できる機会がある」ことがとなるだろう。つまり前者は、出会い系などに代表される、明確な目的性のコミュニティであり、後者は従来の学校や職場、地域・近所の飲み屋など、偶然性のコミュニティとなるのではないか。

 現在、すでにこうした事実について、おそらく数百万人が、漠然とした暗黙知として認識し、そうした行動を取り始めている。だが、まだ「ネットでの出会い」という枠組みは、今のところ、あくまで暗黙知に留まっており、どこか後ろめたい印象をもって語られている段階である。だが、あと数年しないうちに、こうした認識は既知の事実として認識されるだろう。そして、5年10年、15年という期間で、このことは日本人のメンタリティ、つまりは、民族性そのものを変えていくに違いないと思う。

 戦前、見合い結婚どころか、写真結婚すら当たり前に行われていた頃と比較して、より自由恋愛が普通になった現在のほうが、何故離婚率が高いのかという指摘はよく言われることだ。これをミーイズム(自己中心主義)の蔓延と捉えることもできるが、言い方を変えれば『男女関係の流動化』となる。
 今でさえ、男女関係というのは相当に流動化を見せているが、今後出会い系サイトなどのコミュニティにより、この流動化には一層拍車がかかるだろう。その先に待っているモノが一体何なのか、それは僕にもよくわからない。結婚制度の崩壊だろうか?60年代末にもてはやされたフリーセックス時代が社会的に是認される時代がやってくるのだろうか?いずれにせよ、あと10年もすれば、恋愛観・結婚観が相当の変貌を遂げていることは間違いないだろう。

 10年後には、おそらく、様々なキーワードを通して、自分の理想とする相手を見つけることができる手段がますます充実していることになるだろう。世代、容姿、出身地、居住地、趣味、職業、宗教、信条などなど、様々なカテゴリーより、より理想に近い相手を探し出すことができるようになる。『蓼食う虫も好き好き』というが、案外モテる男女のカテゴリーも多様化していくのかもしれない。(笑) …現在、出会い系コミュニティの自己紹介などを見ていると、その大半が非常に詰まらない(笑) 実際、キーワードとして、スポーツ・ドライブ・美味しいモノ・スノボと書かれていても、要するにこういう平凡な人は検索にヒットできないのだ。(笑)
 だが逆に、そういった平凡な人がマジョリティである以上、また、そういった人々のためのソリューションも考案されていくだろう。何故ならば、そこには当然大きなマーケットが存在するからだ。
 かくして、一体この先、どのような社会が到来するのか、まだまだ僕には具体的な意見を言うことはとてもできそうもない。また、項を改めていずれ考察してみようと思う。

 昨年の冬から今年の春にかけて、スキー場は雪の状態が良いにも関わらず、ガラガラの閑古鳥だったらしい。経済的に説明すれば、これは若者がケータイに多くのお金を取られて他のレジャーにお金が落ちなくなったからだということになる。だが、「それだけの金を使った」という事実をもっと突き詰めると、若者にとって、スキー場に行くよりももっと楽しいことがあった。ということになる。
 もし今、多くの若者が、スキー場に行く必要などを感じなくなってきているのだとすれば…。

 繰り返し言うが、10年後、日本人の半数はネットでの出会いで結婚するだろう。

 


8月6日その壱
大前研一ビジネスブレイクスルー 公開トークライブを見てきた。その1

 この日曜日、かねてより申し込んでいた、大前研一ビジネスブレイクスルー(CSで放映中の番組)の、番組収録をかねた公開トークライブを見てきた。
 僕は一応、大前研一のBJO(BUSSINESS JAPAN OPEN)に、起業家メンバー登録をしている。(登録は誰でもできます)それで、このトークライブに抽選で招待されたのだ。
 テーマは「いま、あなたの生き方を見なおそう」テーマそのものに特に興味はなかったのだが、参加してみたかった理由は、下記のようなものだ。

・3人のゲストの中に、板倉雄一郎氏が含まれていた。
・ゲストの一人に、あのビットバレーブームのときに起業した、女性情報サイト「cafeglove.com」の社長である矢野貴久子氏が含まれていた。
・こういった公開ライブに訪れるような人々とは、一体どのような人々なのか一度実地で見てみたかった。

というものです。
 板倉氏については、特にここでは触れない。講演会やトークライブで「大勢の中の一人」として話を聞くのと、インタビューワーとして2時間以上に渡ってじっくり話すのでは話の密度がてんで違うのだ。自分がインタビューしたときより以上に、格別ここで語るような、新しい印象を得るということは、これはなかなかあり得ないだろうから。そして実際、板倉氏はやはりいつもの板倉氏そのままであった。

 ―これは項を改めて書こうと思っていることだが、インタビューライターという仕事は、相手の思想を自分への影響として取り込みたいと望んだ場合、おそらくベストに近い方法なのではないかと思う。2時間ほどじっくり話すだけでなく、その後に会話のテープ起こしを何度も何度も聞き返し、それを原稿に落として、記事としてまとまった形にしていくという作業をするのだ。カッコ良い言い方だが、この間、かなりの程度で相手のパーソナリティや思想そのものと全面的に対峙しなければならない。自分にとって、本当に素晴らしいインタビューであった場合、まるで相手の思想の一部が自分に乗り移ったようにさえ感じられることがある。
 だから、単に報酬を得る手段として以上に、このインタビューライターという仕事は本当に素晴らしい仕事だと自分では思っている。

 カフェグローブ社長の矢野氏個人については、事前の知識は特になかったのだが、ビットバレーブームの頃に散々もてはやされた「これからは女性向けポータルサイトがウケる」というセオリーに忠実に従って起業したドットコム企業の中の1社であり、そして現在、業績は公開されていないものの、どうみてもあまり収益を上げているようには見えない(これはあくまで推測であり、未確認情報ですのでご注意ください)カフェグローブに対して、今後、代表者としてどのような戦略を持っているのか、伺い知ることができればという気持ちがあった。
 よく言われていることだが、単なる情報提供ベースのドットコム企業は、今や完全に選別と淘汰の時代に入っている。僕個人の印象で述べさせてもらえば、カフェグローブは、矢野氏個人のキャリアを色濃く反映し(矢野氏はずっと有名雑誌各誌で編集者・ライターとしてやってこられた方だそうだ)、従来の紙媒体の雑誌とほとんど変わらない情報ソリューションを提供しているだけといった印象がある。矢野氏本人もトークライブで語っていたが、「本当は雑誌をやりたかったが、それだと経費がかかるのでWEBベースではじめた」という印象は、まさにその通りである。
 だが、少しでもインターネットの本質について考えたことがある人間であれば、おそらく本能的に(この嗅覚がおそらく大事なのだと思うが)、サービスを受ける側から見たとき、このサイトの存在意義そのものに疑いを抱いてしまう印象がある。
(melmaが提供している「文学melma!」などもそうなのだが、文芸系・文章系のオンラインサービスの多くが、「このエッセイはここでしか読めません」という、ほぼその一点のみをサイトのコンピタンスとしていることが多い。そもそも情報の偏在をなくす方向に向かうベクトルを常に持っているインターネットで、「情報の偏在」をコアコンピタンスとしていること自体、かなりムリのある発想ではないかというギモンを昔から持っているのだが) そのことについて、経営者としてどの程度の問題意識をもっているのか知りたかったのだ。
 もっと平たく言うと「ビットバレーブームの頃に起業した経営者のレベル」を知りたかったのだ。

 短くまとめるつもりだったが、思いのほか長くなってしまった。これも、項を改めて話を続けようと思う。

 


8月6日その弐
大前研一ビジネスブレイクスルー 公開トークライブを見てきた。その2

(その1よりツヅク)

 結論から言うと、このトークライブから、矢野氏から今後のカフェグローブについての話を聞くことは無かった。トークライブのテーマ自体が「あなたの生き方を見直そう」でもあり、企業経営そのものについての話がほとんど出なかったからだ。
 ただ、一つだけ僕が得た印象としては、非常に失礼を承知で言わせていただくと、
自分のやりたいコトと、会社を経営するコト、の2つの間の構造的な乖離をちゃんと認識していないのではないか」というものだった。

  自分の周囲にいる人を見ると、起業志向な人、クリエイティブ志向な人、そのほか、組織中で企画などのセクションにいる人、などなど、『何かをおっぱじめてやろう』と考えている人々を数多く散見する。もちろん僕自身もその一人でもある。
 だが、大変失礼を承知で言わせていただくと、多くの方が、上記の「やりたいコト」と「会社経営」というモノの本質的な違いを理解していない。あるいは理解していても、意図的に知らないフリをしているように見えることが多い気がする。

 多くの起業が失敗に終わる理由は、多分コレなのだろうと思う。
 23歳のころ、僕がまだ板倉氏が経営するゲームソフト会社の社員だったころ、板倉氏に『企業というのものは、創業登記された3年後には、その8割がなくなっている』という事実を教えてもらったことがある。つまり、さっき言ったコトは、直接融資によるベンチャーが盛り上がってきたここ数年の話ではなく、もっと本質的な問題だろうと思うのだ。

 僕は、この10年間に都合3つの会社の立ち上げを行ってきた。成功したものも失敗したものもあるが、もし今後、自分が何らかの新しいこと(ここで、あえてビジネスという言葉は使いたくない)を始めるときは、多分、ここのところだけは曖昧にしたくない。そうしないと、あとになって必ずおかしなことになるからだ。
 もし、おかしくならなかったとしたら、それは単に運が良かったという話に過ぎないと思う。

 一体、投資を募って会社を興し、そこで事業をやるということは、究極の目標はただ一つしかない。それは「株主への利益を生み出し還元すること」である。長いこと日本の会社社会では、このポイントそのものが曖昧だったためか、この大前提をちゃんと認識していない人が多い。…などとエラそうなことを書いているが、かくいう僕自身、このことをちゃんと意識するようになったのは、ごく最近になってからのことだった。
 お恥ずかしい限りだ。
 先日、宝島社で『ビジネス書』を編著作したとき、担当の編集者さんより、「企画書を、もうちょっとビジネス寄りのテーマでお願いします」とリクエストされた。そして、「では、そもそもビジネスとは一体なんだろう」と考えた結果、現在僕なりにビジネスの定義というモノを持っている。それはつまり下記のようなものだ。

 ビジネス=投資家以外の人間にとっては、他人のお金を増やすために行う行為の総称

 ここに根本的に大きな矛盾がある、と僕は思う。つまり、多くの人が、「自分のやりたいこと」をしたいという目的(夢)のために、「他人のお金を増やすために行う」という手段(ビジネス)を採用するという事実である。
 立場を変えてお金を投資する側から、同じ事業を見た場合、これはまったく逆となり、「自分のお金を増やす」という目的のために、『経営者のやりたいこと』を手段として採用するわけである。
 要するに手段と目的が、立場によってまったく逆なのだ。今まで成功した企業というのは、大雑把に言い切ってしまえば、「この手段と目的の混乱」という大矛盾に対して何らかの折り合いをつけた者だけだと仮定することさえできるのではないか。

 ま、そういう問題意識、―もしかしたら、それは僕の誤解なのかもしれないがーをもっているが故、公開トークライブにも参加してみたわけだが、残念ながら得られたものはなかったように思う。逆に言えば、まだまだオレにもチャンスはあるってことなのかなー!(笑)

 そうそう、トークライブに集まっていた聴衆なのだが、これが実に千差万別で、開催が日曜ということで、多くがカジュアルな服装でもあり、端から見たら一体何の集団なのか分かりにくそうなカンジではあった。(笑) 技術オタッキ―系の若者が多い一方で、シルバーアクセにタイトなTシャツでキメた若い世代もいた。いかにもサエないオジサンも結構いた。個人的には母娘で来ていた(娘さんはヒステリックグラマーのショッピングバッグを持っていた)二人に、何か将来への期待感なぞを感じたりもした。

 もっともこういうところに、ドレッドヘアの奴とか、金髪の男とかが居たらいいなとは思うのだけどねー。(笑)

 


8月8日
提言…ケータイは「男の子用」と「女の子用」を作れ。

 このコトは、前にもこのコーナァで書いたのだが、いざ書いてみたら存外重要な気がしてきた(笑)ので、改めて書きます。

 最近、仕事の関係で、(残念ながら、ここで名前を出すことは守秘義務上できないのだが)さる、日本でも有数のPV(ページビュー)を誇る、ケータイ用の勝手サイトの幹部の方と打ち合わせする機会がちょくちょくある。その方や、その会社の開発責任者の方とお話をするたびに必ず話題に上るのが、「サイト上での様々な犯罪やトラブルがいかに多いか」という悩みである。
 どんなに、サイトポリシーなどで「トラブルが起こっても関知しない」旨を言ったところで、こうした大規模なサイト運営者の方というのは、そうしたトラブルから無関係ではいられないものらしい。年端もいかない女の子から、深夜に延々「掲示板で誹謗中傷された」と泣き声で訴える電話に、開発者の方までが(!)対応したりと、現場は本当に大変だということだ。その労は本当に察して余りある。

 僕の実家のある静岡県浜松市は、現在人口60万人ほどの都市だが、今やケータイで60万人ほどの会員を擁するサイトとなると、もはやそれほど珍しいものではない。その人数の多さにPCインターネットしか知らない者は驚くが、何せ今やimodeは、今年度中に普及台数3000万台に達しようかという勢いなのだ。
 そして、そこに人間が60万人が集まっている以上、中規模の都市で起こりえるトラブルは、同様にすべてが起こりえる。詐欺、ストーカー、ケンカなどのトラブル、合法非合法を問わずドラッグの売買、未成年子女に対する援助交際、風俗や水商売への勧誘、著作権侵害、そして、場合によってはそれらが傷害や殺人にまで及ぶ危険性もある。前にも書いたように、ネット上だから、匿名だから、悪さをしても逃げられるのだ、という考えはもはや過去の話で、現在は警察のハイテク犯罪捜査も進化し、ネット上において、警察筋のお出ましを願うような犯罪が起こった場合、検挙率はむしろあがっていくのではないかとすら思う。だが、いずれにせよそこに多くの人が居る以上、問題が多く発生していくことは避けられない事実なのだ。

 最近つくづく思うのだが、携帯電話メーカー各社、あるいはキャリア各社は、そろそろ携帯電話を、男も女も、オトナもコドモも、ジュッパヒトカラゲに売りつけることについて再考すべきなのではないか。
 ご存知のように携帯電話は購入するときに身分証明書の提示が義務付けられている。現在でも、ドコモをはじめ各キャリアでは「公式サイト」にアダルトコンテンツは認めていない。とは言え、その程度の規制が何の意味もないことは周知の事実である。パソコンも、そして今ではケータイも、便利なビジネスツールであると同時に、もっとも卑猥なエロ本になり得るコトを、今や子供でも知っているのだ。
 そして、そもそもそういうキケンなものを、親の承諾があるだけで未成年者にも売りつけているという事実が問題なのだ。

 マイクロソフトのOFFICE XPが、ようやく今ごろになって「フリーズしたら謝ります」と不具合もあり得るコトを認めたように(!)、ケータイ電話会社も、いい加減、「ケータイから見られるコンテンツは、子供には見せたくないものがある」ことを認めたらどうだろうか。
 認めてしまえばずいぶんラクになりますよ。と僕はいいたいです。(笑) そしてその上で、未成年者(あるいは18歳未満)には、WEBアクセス時に、サーバー側に特定のコードを送出する機能を搭載すればよい。そうするだけで、公式サイトはもちろん、勝手サイトも今のように、責任逃れのためだけに「あなたは18歳以上ですか?」などいうウソ臭い断り書きを載せていることについて、まったく弁明できなくなるだろう。これだけでは確かに抜本的な解決にはならないが、未成年を容易に検出できる機能があるのに、それを活用せずに「18禁」を謳った場合、未成年のサイト利用によって何らかの問題が起こった場合、民事的には、かなり責任を追及できるはずだ。それは、少なくとも一部のアダルトサイト業者にとっては、かなりのリスクファクターとなることだろう。逆に、真面目に良質なコンテンツを提供したいと考えている業者にとっては、いざトラブルが生じた場合、必要以上の責任を負わされるリスクをヘッジできることにも繋がるのだ。

 そして、どうせオトナとコドモに分けてケータイを売るならば、ついでに、『男の子用』と『女の子用』を分けて売って欲しい。おそらくこれだけで、相当なネッカマ対策となりえるだろうし、たとえば特定の電話機メーカーがこうした措置を英断した場合、少なくともサイト運営者、そして、ユーザーから見ても非常な安心材料となりえる。ご存知のように、携帯電話は販売時にROMライターを使って内部にユーザー情報やアドレス帳の持ち越しなど、販売店でのデータ書き込みを行っているのだから、顧客に応じて、ソフトウェア的に「オトナ」「コドモ」「おとこ」「おんな」と、異なるケータイのバージョンを作ることは、それほど難しい話ではないはずだ。

 そして、このことはユーザーから見ても、ケータイをより魅力的な商品とする効果があるだろう。僕は、J−PHONEのケータイを持って以来確信したのだが、携帯電話は現状の第二世代で、まだまだライフスタイルに合わせてカスタマイズできる余地が本当に多い。メール定型文一つとっても、男女別に語句を分けて、その分バリエーションを充実してくれたら、いかに魅力的な商品づくりに貢献できるだろうかと思う。

 要するに、JAVA搭載だ、3Dだ、動画カメラだという前に、携帯電話機には、まだまだやるべきことが沢山あると思うのだ。電話機メーカーの方も、ごくたまにココを覗いていてくださることがあるようでもあるし、このことは是非、ご一考をお願いしたいと思う。

 


8月12日
どうしてくれるんだ靖国(^_^;

 いま、サンデープロジェクト(テレビ朝日)での、靖国問題についての政治家の議論を見ていたのだが、本当にガッカリしてしまった。

 公明党だかの政治家が、「(韓国や中国に対しては)あとのフォローをちゃんとして」と言っていたが、とんでもない話である。結局のところ首相が参拝するのかどうか知らぬが、事後になってからとやかく説明などしたところで、どっちにせよ印象が良いはずはない。「あとのフォロー」などと、何を寝言を言っておるのだ。(^_^; 「事前の説明」がないから他の国は懸念し、邪推し、挙句の果ては外交カードとして利用までされるのだ。
 小泉も小泉だ。なぜにちゃんと説明しない。首相になってからの小泉をずっと見ていたが、もういい年のオヤジなんだがら、青春ドラマごっこもいい加減にして欲しい。一人で悩んでいれば良いというもんじゃないだろうが。

 靖国問題について、ここまで国の内外で騒がれてしまった以上、国の威信だのイデオロギーの問題など、もはや二の次である。それらのことはこれから時間をかけて日本人同士が議論して合意していくべき事項であって、今すぐ結論など出るはずがないではないか。まずは、韓国や中国の国民に対して、小泉はTVでもなんでも使って、ちゃんと語りかけるべきだ。まずは最初に「お騒がせしてゴメンちゃい m(_ _)m」と何故謝らぬ。
 クヨクヨと考え込むのも結構だが、理屈はどうあれ、相手が不愉快を感じたら謝るのが我がニッポンの美徳ではなかったのか。靖国に参拝することの是非はともあれ、この件によって明らかに日本の国益は損なわれた。この責任、一体誰が取ってくれるんだ。

 小泉内閣メールマガジン(退屈)など、IT好きな小泉なのだから、いっそ首相官邸ホームページにMPEGストリーミングで「韓国の皆さんへ」というメッセージでも用意したらどうか。韓国はADSLの普及率も高いようだから、みな喜んで見てくれるだろう。(半分冗談)

 しかし、この問題に対する小泉の反応を見ていると、いまさらながら靖国問題というのは、政治問題などではなく、明らかに宗教問題であるということがよくわかる。合理的な説明がどこにもないし、それによって利する者、損をするものが誰なのかもさっぱりわからない。結局のところ、何故小泉が靖国に参拝したいのかも、これまたまったくわからない。
 たとえば、毎年お盆には帰省して墓参りする習慣がある人に、「どうして毎年、帰省ラッシュを引き起こしてまで墓参するんだ」と訊いてみたところで合理的な説明を期待することなどできないだろう。それと同じように、靖国問題というのは結局宗教問題なのだということを、今回の騒動を見るにつけつくづく感じた次第だ。

 しかし、先日の「朝まで生テレビ」の靖国議論を見ていても、相変わらずカビの生えた議論のオンパレードである。東京裁判が国際法違反であったという話や、インドのパル判事の「日本無罪論」を引き合いに出して、A級戦犯がスケープゴートであった旨を議論してみて、今更どうなるというのだろう。
 戦勝国の論理を押し付けられることで日本人の民族としての尊厳が、とかいう議論ももう聞き飽きた。
 負けた国が勝った国の論理を押し付けられる、いわば「精神的強姦」をされるというコトは、歴史的に見れば珍しくもないことである。かつて独立国だったハワイは、アメリカの「侵略」を受けて、今では合衆国の何十番目かの州である。ハワイの最後の王、カメハメハは、当時日本の明治天皇に対して「アメリカからわが国を救って欲しい」と嘆願したが、アメリカとの摩擦を恐れた明治政府によって嘆願は黙殺され、ハワイ王国は地図から消滅した。いま、ハワイにはカメハメハの銅像があるそうだが、ハワイの人々は毎年カメハメハの命日にその銅像を見て、独立国に戻りたいと願うのだろうか?そんな単純な問題ではあるまい。それが不幸なことであったかどうかは、歴史の終わりにならなければ誰にも評価できないことなのだ。
 そもそも戦勝国のアメリカを支配しているアングロ・サクソンにしてからが、かつてキリスト教によって完全に精神的強姦を受けた民族である。今、アングロサクソンに「キリスト教に支配されている我々は、民族本来の精神を取り戻さなければならぬ」などというヤツが皆無であろうと同様に、あと数世代もすれば、靖国に参拝する奴など誰もいなくなる。良いとか悪いではなく、そういうものなのだと納得するしかないことではないか。首相は、靖国神社を日本人の精神的支柱にするには、もう完全に手遅れであることを認めるべきではないか。

 小泉の息子が今度芸能界デビューするらしい。小泉は国民に靖国参拝をアピールする前に、その息子を連れて家族で靖国参拝できるかどうか試してみるべきだ。自分の家族(息子)をも納得させられなかったら、国民を納得させることなど到底できはしないだろう。靖国は誰が何と言おうと宗教問題であるということを知るべきだ。

 


8月17日
血液型性格判断を信じますか?

 11月28日:このくだり、特定の血液型の方に対してあまりに失礼なんで、削除することにしました。

 


8月21日
Palm-OSは、「わかさわん」を変換できない。

 最近流行りのPalmというのは、実に洒落た商品である。
 以前より、グッチやルイ・ヴィトンの専用ケースが出ているのは知っていたし、そうでなくても僕が持っているIBM製のPalmなどは、標準でついてくるケース(というよりカバーだが)も、質感の良いレザーで実に触り心地がよい。最近、店頭で、ティファニー製のスターリンシルバーのスタイラスを見つけるに及んでは、思わず微笑んでしまった。
 僕が一応Palmを持っている理由は、以前に少しだけ、自分の会社がPalm用のソフトウェア開発に関わっていたからだが、残念ながら、今年4月の事務所の引越しを期に、今はPalm用のクレイドル(PCにPalmを繋げて、充電とデータ交換の両方の機能をもつスタンド)を接続することさえしていない。
 つまり、ハッキリ言うと、僕はアンチPalm派なのである。

 これを読んでくださっている皆さまは、会議や打ち合わせのとき、筆記用具として何を持参しますか?
僕は、ここ数年ずっと「無印良品」のB5サイズリングノートを使っている。リングノートを好む理由は、会議中に描いた無意味な悪戯書きなどを破って捨てたいとき、あるいは相手にメモを渡すときなどに、綺麗にページを切り離せるからだ。表紙にはマジックででっかく、使いはじめた日付と使い終わった日付を記入する。ここ3年ばかり、年間5冊ほどのペースで使ってきているので、今僕の机の引き出しには、都合15冊ほどのリングノートが収納されている。読み返すことはあまりないが、大体はこれで十分である。
 メモ帳は、システムノートサイズですら僕には使いにくい、僕は大変に悪筆な上、手書き文章をほとんど使わない生活をしているため、字がへたくそである。最低でもB5サイズ程度の大きさがないと、ちゃんとメモを取ることができない。
 住所録は、10年ほど、シンプルなテキストファイル形式で、マックでまとめて管理していたが、ここ数年はそれすらもしておらず、時系列におさめた名刺ファイルから名刺を見るだけだ。電話番号は携帯電話のアドレス機能で十分だし、メールアドレスは、Outlookのアドレスブックをそのまま使っている。「ケータイエディ」など、携帯電話とパソコンでアドレスの共有&整理ができるツールは、近々購入するかもしれない。何しろボクも、所詮はオジサンなのだ。オジサンはケータイで細かい文章を入力するのがヘタであり、億劫である。どうしてもなるべくキーボードを使いたいと思ってしまう。
 スケジュールについては、PCの画面で、Monthly表示で見やすいモノを使っている。モバイルのスケジューラやリマインダーについては、少なくとも僕の場合必要ではない。1日に10件以上も営業アポイントがあるような営業マンだったらいざ知らず、アラーム機能付きスケジューラが常に手元にないと、約束すら忘れてしまうようなことは、僕の場合は(ほとんど)ない。

 PDAについては、こういう生活をしていると、入り込む余地がほとんどない。そのせいか、一体多くの人にとって、何故Palmが必要なのか、僕にはよくわからないのだ。
 もっとハッキリ言うと、打ち合わせの席上にメモ帳やノートを持ってこず、おもむろにPalmを取り出す人間については、本能的に、『本当に仕事ができる人なのだろうか』という疑念すら抱いてしまう。Palmの手書き入力で、日本語を使って、思いついたことをそのままどんどん記録できる人間が居るとは僕にはどうしても思えない。唯一例外があるとするならば、英語でメモを取る習慣のある人だが、そういう人間は残念ながら僕の周囲には、少ない。

 タイトルにもあるように、純正のPalm-OSは、日本語の変換が絶望的にひどい。「若狭湾」を変換できないのでは、電子メモ帳としては、他にどんなに機能が充実していても失格であると思う。実際は、Palm用のATOKなどをインストールすれば、このバカな日本語変換はかなり解決するらしい。だが、それにもまして困るのは、Palm-OSの手書き入力メソッドが要求する、めちゃくちゃな筆順のアルファベットである。
 会社の経費でPalmを入手後、僕は少なくとも2週間は、あの、めちゃめちゃな筆順のアルファベット入力に慣れようと、いろいろと練習してみた。日記をPalmで書いてみたり、打ち合わせにもPalmで臨んだりしたのだが、二週間ほど使ったのち、「なぜ、ここまで苦労して人間サマが機械の都合に合わせなくてはならないのだ」と無性に腹が立ってきて、以来きっぱりと使うのをやめてしまった。

 近年、小学校教育では筆順を教えることはないらしい。僕が小学校の頃ですら、もう筆順はあまり教えられなくなってきており、そのせいもあって僕の筆順はメチャメチャである。ただ、そのこととと、PDAの入力メソッドの問題はあくまで別であると思う。PalmーOSに対してもっとも抵抗があるのはこの点であって、おかしな筆順で書かないとマシンが認識しないということは、僕には文化的冒涜とすら感じられる。
 それでも、アルファベット圏の人間にとっては、まだ「変換」という作業が無いだけ、こうした入力方法でも効率は高いのだと思う。実際、欧米でPalmの人気が高いのは、そのへんだろうと思う。だが日本語でメモを取るには明らかにPalmは向いていない。実際、会議などでPalmを使ってみると、変換候補から正しい漢字を選んでいるうちに、大切な話を聞き逃してしまったりする。
 さらに困るのは、手書き入力フィールドが狭いことだ。思うに、手書きフィールドとして、画面全体のどこを使ってよいのであれば、ブライドタッチならぬ、ブラインド手書きが出来るので、まだ実用的だと思う。誰かと話しながらPalmでメモを取るとき、Palmの画面を見ずに文字を入力できる人間はいるだろうか?コレができなければ、文字入力ツールとしては失格であると思う。

 僕は使ったことがないのだが、多分Sharpの「ザウルス」などは、こうした入力メソッドの問題についてはもっと洗練されているのだろう。何せシャープは、かのベストセラーPA-8500以来の、長い電子手帳の伝統をもっている。こうしたPDAでもっとも大切な人名や地名の変換については、おそらく痒いところに手が届くように洗練されているはずだ。だが、ザウルスは、あの独自フォーマットが好きでないので、やはり使う気にはなれずにいる。

 これだけ文句を言っている割には、20代後半の頃の僕は、実は結構なPDAオタクだった。最初はカシオの電子手帳から始まり、その後に変えたPA−8500の日本語変換の良さにはびっくりし、「さすがベストセラー機は違う」と思ったものだった。
 その後、SONYのPalm−TOP(現在のPalmとは別物。SONYがMacOSをパクって作った手書き入力PDAマシン)まで購入し、これは打ち合わせのときなど、取引先に大層珍しがられたので、営業的なメリットもあったように思う。(笑)
 だが、今ではPDAを使うことはない。これから先は、携帯電話のPCとの連携がもっと進むだろうから、ますますPDAは不要だと思っている。何せ、携帯電話とノートパソコンを持って、その上さらに何かを持つというのはかなり苦痛でもあり、これ以上モノを増やしたくないという気持ちも強い。

 実はいま、日本におけるPalmの市場というのは、デスクトップのパソコンを持ち、その上でノートパソコンを購入する予算のない人々によって形成されているのではないか。実際、ノートパソコンとPalmの両方を持っている人は、周囲を見てみると意外に少ない。
 今日のPalmの隆盛というのは、かつてベストセラーだった電子手帳PA-8500が、実はOA(死語)に乗り遅れることに危機感を抱いていながら、それでもパソコンを購入するには、価格面でもMS-DOSの面倒臭さにも、今ひとつ抵抗のあるオジサン層に売れていた現象に、どこか似ている気がする。更に言えば、Palmは商品イメージがお洒落で、かつてのニュートンのようなマニアックさも兼ね備えている。持っていて決してイメージの悪いツールではないだろう。

 唯一、マルチメディアマシン、あるいはハンディゲームマシンとしてのPalm-OSの可能性については肯定しても良いと思う。音楽のダウンロードや、動画映像の送受信マシンとしてPalmが使われるのならば、画面の小さいケータイよりも利便性は高いだろう。ただし、現在そうしたインフラ面については、コスト面でもソフトの充実度においても、PHSをベースにして通信を行っている以上、もう少し時期早尚だろうと思う。だが、そうしている間に、来年以降は第三世代の携帯電話が普及してくる。そう考えると日本におけるPDA市場は、かなり難しいところにあると思う。
 あるいは、もし僕が電車通勤者だったならば、エクスパンドブックとMP-3プレイヤーとして、今でもPalmに存在意義を見出せたかもしれない。だが、残念ながら、僕はバイク通勤者なのだ。

 時として、こうした「必要性の薄いハードウェア」がどうして売れるのか、実はこのことは、意外に重要なことなのではないかと思っている。このことについては、いずれ項を改めて、ここで考察してみたいと思う。

 


8月27日
極私的「モー娘。」論

 今回は「批評家が書かないJポップ批評」風に書こう。(笑)


著作権的にバイヤなので、次に更新するトキは、
これらの画像は消えてると思います。(笑)

 モーニング娘。が、また増えた。
 ついに、結成以来最大の13名体制となったモー娘。だが、一気に4人も加入したという事実は、遠からず現在のメンバーから大量の脱退者が出るコトの伏線であろうことは間違いない。当初、「新メンバー加入後、9月にニューシングルをリリース」とアナウンスされていたはずが、昨日の発表では「13名での新曲は年末に」と変更になったのも気にかかるところだ。これは、新メンバーが歌唱・ダンスともにレベルが低すぎて、すぐにはレコーディングに入れないということなのだろうが、多分、次のシングルは、最初で最後の13名での曲ということになろう。となると逆に、次なるメンバーの脱退劇は、やはり今年中にはないと考えることもできる。
 果たして次にモー娘。から脱退するメンバーは、一体誰だろう?
 モーニング娘。の魅力は、こうした、ファンの間で様々な憶測を呼ぶ「事件」が絶えないことである。憶測は更なるナゾを呼び、遂には都市伝説さえ産み出す。これがモー娘。マニアの醍醐味といえるだろう。

 最近はだいぶ醒めてきたとは言え、僕は、実は結構なモー娘。オタクである。
 最初に「おやっ?」と思ったのは、それほど初期からではなく、モー娘。最大のヒット曲となった「Loveマシーン(1999年9月)」の次のシングル、「恋のダンスサイト」からであった。『何だ、最近じゃん』と思われるかもしれないが、何せボクは基本的に決してアイドルオタクではないのだ。ソコのところ、誤解しないでいただきたい。(笑)
 70年代ディスコヒッツの名曲、アラベスクの「ジンギスカン」を巧妙に本歌取りした「恋ダン」は、メロディ自体もボク世代には随所にニヤリとさせる「つかみ」を感じさせるのだが、何よりも感心したのは、つんくの歌詞であった。タイトル自体、インターネットのWEBサイトをモチーフにしているし、歌詞にも「人生のホームページ、更新するわ。セクシービームで」などと、随所に、インターネットを彷彿とさせる歌詞が盛り込まれている。2000年前後のつんくというのは、もっとも(おそらくは、自身がシャ乱Qで唄っていた頃よりも)ノッていた時期にあったようで、メロディも歌詞も、つんくの真骨頂であるB級感覚であるとか時代感覚が、冴えまくっていた時期であったように思う。
 同時期に出たモー娘。の別ユニット「プッチモニ」の1stシングル「ちょこっとLOVE」は、メールを使って彼氏とコミュニケートする女の子の心情を、スカビート(!)に載せて唄った曲だが(想定年齢は14〜15歳ぐらいだと思う)、この曲のなにげない歌詞は、凄まじいほどのリアリティを持っている。多分つんくは、本当に女子中学生とメール交換をしているのではないか。
 「愛という字を辞書で引いたら 家族の顔が 先に浮かんできたゾ」
 大げさでなく、僕は、「ちょこっとLOVE」の歌詞のこの一節は、ニッポンの歌謡曲史に残る名文句だと思っている。何せ今まで、男が作詞するアイドル歌謡というのは、大半がオトナの側からとか、男の側からの視点で、「恋には憧れるけど、まだ怖いの(ハートマーク)」みたいな、処女信仰思想の権化のような曲ばかりであった。それに比べ、この時期のつんくの歌詞というのは、ミドルティーンの女の子にとってのリアリティを恐ろしいまでに理解している。援助交際だのプチ家出だの、近年ミドルティーンの女の子は、ジャーナリズムによって散々、興味本位に取り上げられてきた。だが、大半の女の子は世間で言われているほど早熟なわけでも、家族が嫌いなわけでもないのだ。

 近年のモー娘。で辛いのは、やはりプロデューサーのつんくの才能が枯渇してきたことだろう。
 2曲続いた色モノ路線、「恋ダン(エスニック趣味)」と「ハッピーサマーウェディング(60年代歌謡曲メロディ)」は、実はもはや正攻法では、かつてのような良質なメロディラインを産み出せなくなったつんくの最後のあがきだったのだと僕は思っている。
 実際、その後につんくは突然に渡英し、気恥ずかしいほどにビートルズを完コピした、意図のわからない妙なアルバムをリリースしている。「Rockin'on Japan」のインタビューでつんく自身語っているが、「(ビートルズコピーアルバムは)売るためではなく、自分の勉強のために作った」そうだ。僕には、このアルバムは、自己の才能に行き詰まりを感じたつんくが、初心に戻ろうとする意思の産物だったように思えてならない。だが残念ながら、これ以降にリリースされたどの曲を聴いても、つんくの曲にかつてほどの冴えは感じられない。

 実際のモー娘。の人気は、ここ1年に渡って長期低落傾向である。最近ついに、小学生向けの雑誌でモーニング娘。のマンガがスタートした。かつてのピンクレディやマイケルジャクソンなどがそうであったように、流行というのは、子供の間でポピュラリティを獲得した時点で、既に終焉に向かっているものなのだ。
 そのこと自体はモー娘。自体の罪ではない。モー娘。のターニングポイントになった、かつての「LOVEマシーン」のような名曲は、もはやつんくには産み出せないだろうし、かと言って小学生ファンが増えた今となっては、今さら、「サマーナイトタウン」のような、いかがわしい魅力に満ち溢れていた初期のモー娘。に戻ることも、もはや許されないだろう。(我が尊敬する高円寺在住のライター、吉村智樹さんはかつて、「批評家が書かないJポップ批評」で、「この曲の歌詞はカーセックスのメタファーである」と喝破したけだし名言である
 後藤真希が加入したとき、中学2年生とは思えぬ、その金髪と、メスフェロモンの強さに誰もが驚愕した。一体、どの世代の女性と話しても、当時モー娘。でもっとも人気がなかったのは後藤真希である。そのメスフェロモンの強さゆえ、後藤真希は「同性に嫌われる存在」という、古典的アイドルの資格を満たしていたのだろう。
 だが、現在モー娘。内で中学2年の加護亜衣と辻希美には、もはや、かつてのゴマキのようなメスフェロモンは感じられない。むしろ、同世代と年下の同性にアピールするキャラクターであって、そう考えると、新規加入メンバー4人全員が中学生だった今回のメンバー増員も仕方のないことなのだとは思う。
 今のモーニング娘。に、かつて在籍した、どう見てもお水関係にしか見えないルックスの、「鼻ピアスをしたアイドル・石黒彩」や、短大卒業後、OL生活を経てアイドルになった、「20台後半の酒豪アイドル・中澤裕子」のような、ある意味でフリークス的な存在を期待するコトは、もう不可能なのだろう。


口の悪いアンチの間では、「鬼瓦」とも言われる
ヤッスー。かわいーと思うけどなー。ダメ?

 さて、果たして次にモー娘。から脱退するのは誰か?
 認めたくはないのだが、おそらく世間での下馬評にたがわず、「モー娘。永遠の人気最下位・保田圭」だろう。個人的には、「なんでコイツがモー娘。にいるの?」と言われ続けてきた保田圭の存在こそが、実はモー娘。が当初から持っていた、いかがわしい魅力の最後の砦であると思ってきたのだが。(とにかく、事務所の、保田圭に対する扱いの酷さというのはちょっと考えられないほどで、「恋のダンスサイト」のビデオクリップでは、一番端に居て目立たないとはいえ、曲中で振り付けをミスって、踊りが止まってしまう保田圭が、「そのまま」クリップに収録されている。『保田圭など誰も見ていないだろう』という事務所のこの態度こそが、逆にインターネットなどのコアなファンサイトで、保田が判官びいき的な人気を博すという現象を引き起こしているのではないか昔から、『美女は三日で飽きるが、ブ○は三日で馴れる』という。そういう意味でボク個人としては、「保田圭居ずして何のモーニング娘。か」という気持ちは強いのだが。
 歴代モー娘。メンバーの中では、保田圭は、最初に脱退した福田明日香(この福田明日香もまた、『スタイルが悪くてミニスカをはけないアイドル』という、ある意味でフリークス的存在であった)に次いで歌唱力のあるメンバーであると言われてきた。モー娘。の、アベレージの低い歌唱力と、貧弱な声量を下支えしてきた存在だったわけだが、実のところ、保田が抜けてもモー娘。の歌唱の個性そのものはあまり変わらないのではないかと思う。
 あまり意識されていないコトだが、モーニング娘。は、あまたの女性ボーカルグループと比して、実は歌声にかなり個性がある。それは「恋のダンスサイト」や「恋愛レボリューション21」のような元気な曲さえも妙に色っぽく唄う、つんく直伝のミスマッチとも言える歌唱スタイルであり、その独特な歌唱スタイルを支えているのは、実は、見た目に反して矢口真理と、自他共に認める松田聖子フリークの飯田圭織、そして安倍なつみの3人なのだ。保田圭の脱退が、モー娘。の歌唱スタイルを大きく変えてしまうことは多分ないだろう。

 では、保田圭の他に脱退するメンバーは?ボクは案外、辻希美が「戦力外通知」を受けてリストラされる可能性を否定できないと思っている。(もちろんその場合は、何か別の理由を付けての脱退となるだろうが)とにかく、辻の成長のなさというのは、この先かなり辛いものがあるし、もともと辻は、加護亜衣とキャラがかぶっている。加えて最近の辻希美は、心なしかかなり精神的にヤバい状況にあるような気がしてならない。
 ファンサイトでは、ソロ活動を始めた後藤真希、そして年齢の高い順に順当に飯田圭織や安倍なつみの名も上がっている。だが、20才以上のメンバーが一人残らず居なくなるということはバランス上ありえないとボクは見ている。そして、オリジナルメンバーの安倍なつみは、モー娘。の顔として、つんくはまだまだ残すだろうと思う。
 以上の点からボク自身は、向こう1年間の脱退は3名保田圭辻希美後藤真希と見る。
 後藤真希は、現在のモー娘。では、既にオーバープレゼンスだと思う。最近、事務所が同年代の石川梨花をプッシュしているところから見ても、事務所は「ポストゴマキ」として石川を位置付けようという意図が見えるし、ゴマキはピン(単独)で売っても十分なセールスをもたらすことは、先日のソロシングル「愛のバカやろう」で実証済みだ。辻は引退。そして、保田圭は、元T&Cボンバーの稲場などと新ユニットを組まされる、というのがボクの予測だ。どうなるだろうか?
 コレ以外の形で脱退劇があった場合、それは多分事務所の思惑外の結果(事務所の意向とは別にメンバーが引退を望んだ場合など)ということになるのではないか。そして、その可能性を否定できないコトが、予測をより困難にしている。意外に言及されない事実なのだが、歴代モー娘。で、脱退した4人のうち、実は3人までが事務所の意向に反しての脱退だった。福田は学業専念。石黒はデキちゃった結婚。市井は(一説には)ギャラを巡る事務所とのトラブル。『円満退社』したのは、実は中澤裕子ただ一人なのである。
 そして、改めて考えてみると、シンガーとしてのモー娘。は、もはや完全にピークを過ぎてしまっている。現在のモー娘。にとって最大の不幸は、仮にモー娘。を卒業しても、トラブル覚悟で事務所移籍でもしない限り、つんくプロデュースから逃れられないという事実なのではないか。正直なところ、才能の枯渇した現在のつんくの元にいる限り、つんくと共にフェードアウトしていく運命から逃れるコトはできまい。それは、あたかも小室哲哉プロデュースのアーティストが、小室ブームの終焉とともに軒並みフェードアウトしている状況を思い起こさせる。

 モー娘。の所属事務所、アップフロントエージェンシーというのは、ハッキリ言っていろいろな意味で力のない事務所である。モーニング娘。は、国民的アイドルと言われる割に、ゴールデンタイムにTVのレギュラーをほとんど持っていない。元来、バーニングやジャニーズに比べ、政治力のないプロダクションなのだ。そうした状況で人気を維持していくためには、結局のところヒット曲をちゃんと出していくことしかないと思うのだが。僕が事務所の社長だったら、とにかく何らかの名目をつけて、つんく以外の誰かに曲を書かせる。つんくの才能が枯渇したいま、アップフロントエージェンシーの女性アイドルは、軒並み地盤沈下しかねない。

 最後に、新メンバー4人に対するボク個人の感想を言うと、全員が中学生だった時点で「×」であると言わざるを得ない。モーニング娘。がかつてのいかがわしい魅力を取り戻すためには、極端な話、18歳ぐらいで既にバツイチのヤンママや、高校を中退してタトゥーを入れているようなメンバーを入れるべきではなかったかと思う。しかし、国民的アイドルになってしまったいま、モー娘。にソレを期待することは酷というものだろう。
 だが、既にファンサイトで、ルックス面で激しい論争が巻き起こっている新垣里沙(12)、そしてつんく自身が「ダンスも唄も赤点レベルだが、こういうメンバーがいてこそ、モー娘。」という、とんでもないコメントをつけた、紺野あさ美(14)の存在に、モー娘。が本来持っている、超B級主義の系譜を感じることができるかな、と思ってはいる。

 正直言ってまだまだ幾らでも書けるのだが、今回はこのへんにしておいてやろう。(誰に向かって言ってるんだ。(笑)) とにかく、モー娘。について語りはじめると話題は尽きない。ソコが、モーニング娘の魅力だと思う。

 『モーニング娘。ベスト1』は、アナログ版で購入した。いつかDJとして、モー娘。オリジナルリミックスを披露してみたいものだ。


8月30日
素朴すぎる疑問―食糧とエネルギーのこと。 (9月2日改訂)

 今日の、この文章については、正直言ってあまり自信がない。だから、「素朴な疑問」なのだが、コレを読んでいただいている方には、まず先に、そこをお断りしておかねばならない。何しろ僕は、食糧もエネルギー関連も、ぜんぜん専門ではないのです。ある程度、批判的な目で読んでいただけるようお願いしたいです。

 完全失業率が、ついに5%を越えたそうだ。
 ちょっと前までは、競争力のない産業が衰退すれば、それに代わって新しく興ってくる産業が雇用を産み出すので、短期的な失業率の悪化は仕方のないことだといわれていた。では、新しい産業とは一体何かというと、IT産業を筆頭に、新しいビジネスが起こるのだと言われてきた。
 ところが、ここ数日のニュースを見ていると、最近の富士通や日立などの大幅なリストラ、そして、米国のIT企業の失速などを受け、「もはや、雇用の受け皿となってくれる産業はないのだ」というような、悲観ムード一色である。

 僕が時として、マスコミに不信感を抱くのは、こういうところである。往々にしてマスコミは、何か問題が起こると、ことさらヒステリックに騒ぎ立てる割には、対案を出そうという気がさらさら無かったりする。…最近、某大手出版社の某編集部に行って話したのだが、案の定というべきか、「Yahoo!BBのサービス開始にまつわるトラブルを特集として取り上げたいのだが」と言っていた。もっとも、技術系誌ではない、一般誌だったから、どうしてもそういうトピックとして扱われてしまうのかもしれないが。
 …『出る杭は打たれる』とはよく言ったものだと思う。Yahoo!BBや、そしてNTTドコモのFOMAなど、新しいコトを始めようとした者に不手際があると、この国は、まずマスコミが先頭に立ってあざ笑おうとする。大体、Yahoo!BBのサービスが多少遅れたからと言って、本当の意味で困るやつがどれほど居るというのだろう。どうして、こうした野心的な事業を、皆で応援してやろうという気持ちが無いのだろう。

以下370文字
自己検閲のため当分の間削除

 ちょっと前に、サンデープロジェクト(テレビ朝日)を見ていたら、『ゼネコンや金融などが破綻したら、雇用の受け皿となるような、新しい産業とは何なのか?』という問いに対して、どこかの識者が、『それは新しいサービス業が産まれて…』と応えていた。この答えにスタジオに居た誰もがシラけた反応を見せていた。おそらく、多くの視聴者(僕自身を含めて)も、同じような反応だったのではないか。『一体、これ以上便利になってどうするのだ』という、漠然とした違和感が、多くの人の心の中にあるからだろう。そしてもう一つ、『その新しいサービスが何であれ、多分、より人手を節約する方向になることは間違いないだろう』という不安感も、また多いのではないか。

 本や雑誌を見ても、どの報道番組を見ても、誰も言っていないので、もしかしたら僕がこれから言うことはおかしいのかもしれない。…いや、もしかしたら案外、目立たないところで誰かが言っていることなのかもしれないが。
 僕は、オールドエコノミーの衰退によって出た余剰の労働力を、経済的な矛盾なく吸収できる産業というのは、基本的には二つしかないと思っている。それは何かというと、食糧産業エネルギー産業である。これって間違ってますか?
 だってさぁ、そうじゃないんですかぁ? IT技術によって、新しいサービス産業は多分これからもどんどん興ってくるだろうし、それによって僕たちの生活が、気がつかぬ間に激変していくコト、これも確かに間違いないだろう。だが、IT産業というのは、往々にして超知識集約的なビジネスであり、それほど多くの人手を必要としない産業であることも間違いない。平均的な100人より、突出した一人が居れば事足りる、というのがITの本質だからだ。 …ただし今後、eコマースの普及などによって、宅配便のような物流サービス産業は、ますます成長するだろうとは思う。それにしたって、百貨店などの旧来の販売形態が衰退した部分の雇用を吸い上げ、結局プラマイゼロにすら、ならないと思うのだ。

 なぜ僕が、食糧とエネルギーと言うのかというと、この二つは、ITのような付加価値の高いサービスと違い、どんなビンボー人でも、なしでは絶対に生きていけない必需品だからだ。
 さらに言うならば、この二つは、もともと国内で需要をまかない切れておらず、輸入依存度が高い。ご存知のように、食糧もエネルギーも、現在、自給率は5割以下である。この二つにおいて、日本が競争力のある産業を国内に育成したら、輸入はますます減って非難されるかもしれないが、少なくとも矛盾なく雇用は創出できるのではないか。

 『経済がグローバル化しているというときに、エネルギーや食糧を自国でまかなうというのは時代に逆行しているのではないか』という意見があるのはよくわかる。たとえば食糧なども中国からの輸入にコスト面で勝てるのか?中東から輸入する石油にエネルギー効率で勝てる資源があるのか?という議論もある。だが、少なくとも現在のように、世界的に見て生産性最低の農業を補助金や減反で守るならば、いっそ、それも構造改革して、たとえば、都市型の、ビルを丸ごと食糧工場にするような、新しい農業ベンチャーを起こすことはできないのだろうか?一定以上の高い生産性を実現できそうな、新しい農業ベンチャーの事業計画に対しては、優先的に資金を出すなどの方策を政府が行うことは本当にできないのだろうか?少なくとも、公共事業や農業補助に金を出すぐらいならば、もっとそういうことに金を使って欲しい。
 自分たちが食うモノは、自分たちで作る。しかも、付加価値の高いITと違い、食糧は金持ちもビンボー人も、人間にとって必ず必要なモノでもある。これなら世界中のどこからも文句も出まい。
 エネルギーに関しては、既にかなりこうした動きがあることは僕も承知している。更なる構造改革を実現するには、電力会社やガス会社、石油会社の行う事業に対して、これまで以上の規制緩和も必要だろう。LAの電力危機のような先例もあり、こうしたインフラの問題は、確かに慎重に行うべきことではあるだろう。

 元来、食糧とエネルギーは、『グローバル経済』という名目で片付けてよい問題ではないはずだ。中国にしても、今のまま人口が増加したら、いずれ食糧の輸入国に転落することは確実だと見られており、そのときが来たら、日本はどうするのだろう。第三世界の人口は、依然として高い増加率であり、彼らがいかに先進国の住人よりエネルギーを消費しないと言ったところで、いずれ限界は必ずやってくる。

 金融もゼネコンも確かに問題だが、バイオテクノロジーでもコンピュータ技術でも、最新の技術を導入して、まず構造改革しなければならないのは、食糧とエネルギー、この二つなのではないか?

 以上、シロートの素朴な疑問でした。だが、素朴なギモンというのは、意外に真実だったりすることもあると思う。10年以上も前、バブル崩壊の前にも、どこかのBBSで、「土地のような、それ自体付加価値のないものにお金をつぎこんで、一体何のメリットがあるのか、わかる人は教えて欲しい」と書いたことがある。その頃、巷の識者は「東京は世界中の情報が集まり、付加価値が高いのだから、土地が高いのは当然だ」などと言っていたのを思い出す。

 今回のこのトピックも、どこか、間違っていたら教えて欲しい。

 

 

 
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